新しい年を神に委ねよう

「新しい年を神に委ねよう」 新年礼拝 宣教 2022年1月2日

 テサロニケの信徒への手紙 5章16〜22節     牧師 河野信一郎

おはようございます。そして新年のご挨拶を申し上げます。明けましておめでとうございます。旧年中は、大久保教会を覚えてくださり、たくさんのお祈りとご支援とご協力、対面式の礼拝とオンラインの礼拝出席をありがとうございました。コロナ・オミクロン変異株の市中感染が徐々に広がりを見せていますが、皆さんが感染から守られ、日々健やかに安全に歩まれますように、礼拝を続けてゆけますように、お祈りして行きたいと思います。

新年に入って二日目ですが、皆さんは31日の大晦日をどのように過ごされたでしょうか。お忙しく過ごされたでしょうか。我が家は大掃除をし、整理整頓がなされ、幾分かはきれいになりましたが、たくさんのゴミが出ました。また、わたしは、オンライン用パワーポイントの準備があり、新年、そして月の初めということもあって準備に時間がかかり、寒いこの礼拝堂で2022年を迎えることになりしました。しかし、日付が変わる数分前に家族全員が礼拝堂に上がって来てくれて、みんなでカウントダウンをし、新しい年を迎えて喜びました。

2022年が明け、最初の日曜日の朝、皆さんとご一緒に礼拝堂に集まり、またオンラインで新年礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。今年も、礼拝と交わり、そして神様の愛を人々に分かち合って行きたいと願っています。どうぞよろしくお願いいたします。

さて、皆さんは2021年にやり残したこと、あるいは残念に思ったことはないでしょうか。「やり残したこと」という感覚よりも、委ねられた責任を果たせていないので、年をまたいで、ひたすら責任を果たして行くだけという心構えの方もおられるかもしれません。確かにやり残したことや悔いが残ることは色々たくさんあっても、今となってはどうすることもできませんし、少し立ち止まっても前進するしかないわけで、そういう経験からしっかり学んで、悔いを残さないように新しい年を毎日大切に過ごしてゆく心構えが必要なのだと思います。

さて、年の初めから世俗的で個人的な話になり大変恐縮ですが、わたしは先日、NHKの紅白歌合戦を約20数年ぶりに観ました。2020年からファンになった藤井風という岡山県出身の若い男性歌手が初出場すると聞いていましたので、彼が登場する10時頃にパワーポイントの準備を少し休憩し、礼拝堂から牧師館に戻りました。家族全員が藤井風ファンなので、テレビの前にみんな正座して観ました。家族5人で一緒にテレビを観たのは何年ぶりでしょうか。ほんの10分の間でしたが、楽しい時間を過ごし、わたしはまた礼拝堂に戻りました。

実を言うと、わたしは紅白のトリを務めたMisiaという歌い手さんもデビュー当時から大好きで、彼女の歌う場面も観たかったのですが、「もっと早くからパワーポイントの準備をしておけば良かった」と悔やみながら、後ろ髪を引かれる中、Misiaよりも礼拝の準備を優先させて礼拝堂に戻りました。しかし、日付が変わって少し時間が経過した時、友達がSNSで「藤井風がMisiaと共演してHigher Love(藤井君がMisiaに提供した曲)を一緒に歌った。ゴスペル調でとっても素敵だった。感動した。」とコメントするのを読んで、非常に大きなショックを受けました。「あぁ、見ておけば良かったぁ」と大いに悔やまれました。

翌朝、二人が共演したその場面だけでもなんとか観れないかと思い、ユーチューブで探しましたがダメでした。しかし、どうしても諦めきれずにNHKのホームページを見ましたら、受信料を払っている人は放送後の番組を7日間だけ無料で観られることが分かり、わたしは人生で初めて「受信料を払っておいてよかった」と思いました。便利な世の中になりました。

さて、今朝の新年礼拝に出席されている皆さんにお伝えしたいのは、わたしがいかに世俗的な人間であるかということではなくて、短い時間内であっても、わたしたちは楽しいこと、悔やまれること、感動することを色々味わうということです。もっと誇張して大げさに言うならば、新しく始まった2022年も、その一年を歩んでゆく中でも色々なことが日々の生活や出会いの中でわたしたちにあって、楽しいことも、悔やまれることも、感動することも、涙することも、笑うこともたくさんある、とてもカラフルな一年になるだろうと言うことです。

話を元に戻しますが、昨日から始まった新しい年に対して、わたしたちは昨年からの心を引きずり続けることも一理ですが、新しい心、リフレッシュされた心持ちを持つことも大切であると思います。新しい年を歩み出すために、わたしたち一人一人にふさわしい心構えが必要であると思います。ある人が友だちに「新しい年はいったいどのような年になるのだろうか」と尋ねました。多分その人には何かしらの不安があったのだと思います。そうしたら、その友だちは、「365回のチャンス・機会があるさ」と答えたそうです。「365回の好機があるさ」と答えます。新しい年を歩み出す中で不安を抱いている友に対して、100%前向きの言葉であり、大切な友が頑張って一年を過ごせるようにする力強い励ましの言葉だと思います。

毎日、チャンスがあるのです。1年365日、毎日頑張って生きるチャンスがあるのです。あると言うか、与えられているのです。確かに、毎日の仕事や勉強や家族の世話が大変、人間関係も大変、将来のことで悩んだり、不安を覚えたりして、生きづらさを感じることがある。その反対に、何の代わり映えのない退屈な毎日を送っている人もいるかもしれない。しかしそのように思えても、生きていること、生かされていることは本当に素晴らしいことであり、感謝なことだと思います。怪我をしたり、病気に罹ったり、不自由になる時に、わたしたちは健康であること、不自由さがなく生活できることの素晴らしさを味わうことができるように、目には見えないけれど、しかしいつも近くにいてくださる方、大いなる愛と力を持たれる神様にわたしたちは日々生かされ、生きるために必要なものが常に与えられています。

1年365回与えられている生きるチャンスを好機とするか、あるいは無駄にするかは、すべてわたしたちの心構え次第なのです。そういう「自由さ」も神様からわたしたちは与えられている、それも実に素晴らしいこと、幸いなこと、恵みであるとわたしは思います。

2022年を歩みだしてゆくわたしたちに今朝与えられているのは、とても有名で、教会の中でずっと親しまれている聖書箇所です。しかし、この手紙が書き送られた背景や事情を知る時、当時テサロニケと云うギリシャ・マケドニア地方で生かされていた人々が様々なことに悩み苦しみ、不安や恐れを抱えながら必死に生きようとしていたことを知り、そう云う人たちを励ますためにこの手紙が送られた、そう云う手紙であることを知る時、パウロ先生の一つ一つの言葉には重みがあることが分かります。

テサロニケの信徒への手紙⑴5章16節から18節に、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」とあります。神様が、イエス・キリストを通してわたしたちに求めておられるのは、いつも喜び、絶えず祈り、どんなことでも感謝すると云うこと。

実に単純明快なことが記されているように思いますが、本当にそうでしょうか。いつも喜ぶなんて絶対無理、絶えず祈るなんて非合理的、どんなことにも感謝するなんてできる訳ないと正直感じるのではないでしょうか。なぜそう感じてしまうのか。それは、自分の生活や人間関係を振り返る中で、喜べないこと、感謝できないことがループのように繰り返されているからではないでしょうか。たった12時間、あるいは1日の中でも様々なことが起こり、わたしたちの感情は上がったり、下がったり、起伏の激しい時間を過ごし、1日の終わりにはもうクタクタになっている。だからわたしたちは、無理、不可能と思うのではないでしょうか。

しかし、わたしたちはとても大事なことを見逃しています。それを見逃しているから、わたしたちは絶対無理、100%不可能だと感じ、少しは抵抗しても、最終的には諦めるのです。それでは何を見逃しているのか。少なくとも二つあると思います。

一つは、「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」とは、「神様に委ねなさい」と云うことです。「いつも、絶えず、どんなことも神様に委ねなさい」と云うこと。自分の力で喜ぼう、祈ろう、感謝しようとしてもできる訳ないです、みんな弱さを持った存在であるから。パーフェクトな人などいません。そうではないでしょうか。

しかし、神様を心に信じて、神様にすべてを委ねたら、神様がわたしたちの心を守ってくださり、励まし強めてくださり、軽くしてくださり、どのようなことがあっても前向きに捉えることができるように神様がしてくださいます。どうしてでしょうか。わたしたちが常に求め、渇望している喜び、安らぎ、幸せ、将来の保証、希望、愛の源が神様であるからです。

わたしたちが見逃している二つ目は、「キリスト・イエスにおいて」と云う言葉です。神様に信頼し、望みを置きなさい、委ねなさいと言われても、神という存在があまりにも遠すぎて、大きすぎて、見えなさすぎてできる訳がないと思うのが本音ではないでしょうか。そういう部分を解消するために、神様はイエス・キリストを救い主としてわたしたちのもとに派遣されたのです。言っている意味が分からないかもしれませんね。つまり、神という存在があまりにも遠くに感じているわたしたちに神様から近づいてくださったのがイエス・キリストです。神様の存在があまりにも大きすぎるので、小さくなって、人の形をとってこの地上に来られたのがイエス・キリストです。神様が見えなさすぎて、その存在を疑わしいと思うわたしたちに神様の愛を伝えるためにイエス・キリストがこの地上を歩まれたのです。

わたしたちが「いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝できるように」、神様に信頼して歩むことができるように、わたしたちを助けるために神様が救い主としてイエス様を誕生させ、今も生きてわたしたちと共に歩み、わたしたちを日々守り、導き、励まし、悪い方向へ行きそうになると、「そっちに行ってはいけない」と注意喚起をしてくださるのです。

神様は無理難題を押し付ける方ではありません。「神は愛です」と聖書に記されています。神様は、わたしたちの弱さ、足りない部分もすべて知っておられます。しかし、わたしたちに最高の人生を送って欲しいと神様は願っておられるので、助け主イエス・キリストを与えてくださいました。それは、イエス・キリストを通して神様に委ねて欲しいからです。

19節に「『霊』の火を消してはいけません」とあります。神様の霊を与えてくださっているのです。教会に神様の霊が与えられています。神様の霊は教会の命そのものです。この世の恐れや不安によって消されるようなものではありませんが、それを消してしまうのがわたしたちの不信仰です。そうならないために目の前の恐れや不安に目を注ぐのではなくて、イエス様から目をそらさずに、イエス様を見続けて行かなければなりません。

20節に「預言を軽んじてはいけません」とありますが、神様の言葉をしっかり聴き続けなさいと云う励ましの言葉です。21節には「すべてを吟味し、良いものを大事にしなさい」とありますが、わたしたちの目の前には良いものと悪いものがあり、必要なものと不必要なものがあります。それをよく吟味する必要、よく考える必要があります。それを助けてくださるのも神様であり、イエス様です。ですから、絶えず祈る必要があるのです。

22節に「あらゆる悪いものから遠ざかりなさい」とありますが、何が良くて、何が悪いのか、わたしたちは本当に把握しているでしょうか。何が良くて、何が悪いのかを判断するためには正しい基準を持つ必要がありますが、人間の限られた知恵や経験は足りなかったり、歪められているので正確ではありません。まっすぐなお方、それはイエス・キリストです。この方に新しい年も助けていただいて、神様に委ねながら誠実に生きてゆくことを求めましょう。