ルカ(89) つまずき、赦し、信仰、奉仕、謙遜について教えるイエス

ルカによる福音書17章1〜10節

 ルカによる福音書の学びもいよいよ17章に入りますが、今回の1節から10節は、短いながらも、テーマが5つもある、内容的に濃い箇所です。この箇所の内容を手短に紹介しますと、まず、人をつまずかせてはならないこと、人を赦すこと、信仰をもって生きること、人に対して常に優しさを持って仕えること、そしていつも謙遜に生きるということです。そしてこの箇所の中心となるのが、5節にあります使徒たち、すなわちイエス様の弟子たちが、イエス様に「わたしどもの信仰を増してください」と言った言葉です。

 

さて、この5つのテーマはすべて、人に対して「信仰」がなければできない、不可能なことばかりです。では、キリスト教でいう「信仰」とはいったい何でしょうか。世界中には数えきれないほどの信仰が存在しますが、キリスト教の「信仰」とはいったい何でしょうか。キリスト教の信仰の対象は、創造主である神であり、救い主であるイエス・キリストであり、信仰の導き手である聖霊、つまり三位一体の神です。

 

「信仰」は、この神を「信」じて「仰」ぐ、と漢字で書きますように、聖書に記されている天地万物を造られ、そのすべてをその御手の中で支配されている・治めておられる創造主なる神を、罪に満ちたこの世界を滅ぼす神ではなく、そのような世を愛して救い主イエス・キリストを与えてくださった愛と真実な神を信じて仰ぐということです。

 

わたしたちに神の愛と天国での永遠の命について教え、わたしたち一人ひとりを罪と死の縄目、苦しみから解放するために十字架でその命を捨てて贖いの死を遂げてくださり、神様の愛の力によって甦られ、永遠の命を受ける道を開いてくださった救い主イエス・キリストを信じて仰ぐということです。

 

そして、わたしたち一人ひとりの心のうちに宿ってくださり、神様の存在を常に感じさせてくださり、神様と救い主イエス様の言葉を理解させるために心を作り変えて、その心を常に育んでくださる聖霊を信じて歩むということです。聖霊はわたしたちの内側におられますので、仰ぐと言うよりも、もっと近くに感じると言う言い方が良いと思います。

 

ある人が、キリスト教の信仰とは、この三位一体の神、つまり父なる神、子なる神、霊なる神をいつも心に思いながら、心に留めながら歩むことだと言っていましたが、常に見上げて、求めて、従ってゆくことが信仰と思いますし、使徒パウロの言葉を借りて言うならば、いつも神様にあって喜び、イエスの御名によって祈り、すべてのことを感謝して生きること、それこそがイエス・キリストにあって神様がわたしたちに求めておられる信仰であると言えると思います。

 

前置きがだいぶ長くなりましたが、今回の学びのテーマは、何事にも神様への信仰に基づいて行うことが大きな祝福になるということです。すなわち、信仰に基づいて行動することで、わたしたちの考え方や生き方、物事の受け止め方が変わってゆき、よりストレスなしの人生を自分の幸せのためだけではなく、神様と隣人に喜んでもらえるように生きられるということです。本当に満たされた豊かな人生を歩むためには、神様の愛を受け取って、その愛の中に生きることが大切であることをいつも心に留めたいと願います。

 

さて、最初のテーマは、「つまずき」です。1節と2節に「1イエスは弟子たちに言われた。『つまずきは避けられない。だが、それをもたらす者は不幸である。 2そのような者は、これらの小さい者の一人をつまずかせるよりも、首にひき臼を懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がましである』」とあり、2節は激しい言葉です。この「つまずき」というギリシャ語はスカンダロンという言葉が用いられていて、スキャンダルの語源です。

 

この「つまずき」は基本的に二つのパターンがあります。一つは、自分の価値基準で人を見て、その人の有り様を勝手に判断して、勝手につまずくというものです。相手の事情や背景を考慮しない裁き方です。例えば、素敵な服や装飾品をつけていると贅沢だと思われ、みすぼらしい服を着ているとだらしないと言われてしまう。お話が好きな人はおしゃべりだと言われ、黙っていると根暗とか冷たいと言われてしまう、そういう感じです。

 

もう一つの「つまずき」は、人を誘惑して罪に陥れ、神に背かせるというもので、そういうことをする人の罪は大きいということです。イエス様が言われた通り、日々の生活の中で、つまずきは避けられないものです。しかし、人をつまずかせないためにも、自分もつまずかないためにも、とても大切で必要なことは、神様に目を向けて歩むということです。神様に集中していれば、心は守られます。人に目を向けてばかりいると、どうしてもつまずいたり、裁いてしまったり、不平不満を口にしてしまい、心が荒れてしまうのです。神様に心を向けること、信仰をもって歩む時に、つまずくことから解放されます。

 

次のテーマは、「赦す」ということです。3節と4節を読みます。「3あなたがたも気をつけなさい。もし兄弟が罪を犯したら、戒めなさい。そして、悔い改めれば、赦してやりなさい。 4一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」とあります。日本語のキリスト教会では、人が人を許す時は、「許す」という漢字を用い、神様がわたしたちの罪を許してくださる時は、「赦す」という漢字を用いることが多いです。

 

わたしたちには、誰かを許すことができる時と場合と、そうできない時と場合があります。この人は許せるけれど、この人は絶対に許せないということも多々あります。この人は好き、この人は苦手という感じで、色眼鏡で人を見てしまい、平等に判断しないことがありますが、神様とイエス様は人を偏り見ることはありません。自分の罪を正直に認め、神様に対して悔い改める人の罪を神様は憐れみをもって赦し、救いを与えてくださいます。ですから、自分の意思だけで許す場合は「許し」になり、神様の愛と憐れみを受けて、信仰をもって人を許す場合は「赦し」という漢字を用いることが多いのです。

 

神様の赦しには、イエス・キリストの贖いの死、イエス様の尊い血潮が代償として基礎にあります。たとえ自分の兄妹であっても、許せないことがあります。一日に七回どころか、一度だけでも許すだけの度量が心にありません。しかし、もしその人を戒め、その人が心から悔い改めたらば、その人を神様の愛の力を借りて「赦し」、心を軽くさせ、ストレスフリーで生きなさいとイエス様はわたしたちを招くのです。

 

さて次は今回の中心テーマである「信仰」についてです。5節と6節で、「5使徒たちが、『わたしどもの信仰を増してください』と言ったとき、6主は言われた。『もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、「抜け出して海に根を下ろせ」と言っても、言うことを聞くであろう』」というイエス様の言葉があります。ここで注目すべきは、信仰が「ある」ということが重要であって、信仰の「量」は関係ないということです。例えば、半世紀以上も教会生活をしている人であっても、神様に信頼しないで自分の知恵や経験を頼って生きているならば、その人は信仰生活を送っているとは言えないと思います。しかし、先週、あるいは昨日イエス様を救い主と信じてイエス様に従っている人は、信仰生活の年月やどれだけ奉仕してきたかの人間の業ではなく、いま与えられている信仰で神様に喜ばれている存在であるわけです。ですからイエス様は、「からし種一粒ほどの信仰」で十分、その人には神様の愛の力があるとおっしゃるのです。信仰は、量ではなく、質なのです。ですから、教会ではみんな平等なのです。

 

次のテーマは、「人に対して常に優しさを持って仕えること」ということです。7節と8節を読みますと、「7あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。8むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕してくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか」という今日で言うパワーハラスメント的なことが言われています。とても酷なことです。

 

しかし、職場でも、家庭でも、人間関係の中でも、こういうハラスメントが行われていて、加害者の知らないところで被害者たちが苦しみ、涙しているのではないでしょうか。今の時代、人との関わり合いの中で、相手に対する寛容さ、優しさ、心配りが欠如して、自分の好き勝手に生きていると叫ばれています。自分の幸せのために誰かを利用するのではなく、誰かの幸せ・笑顔のために仕えて生きること、それがイエス様の生き様です。

 

最後のテーマは、誰に対しても、どのような時も、絶えず謙遜に生きると言うことです。9節の「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか」と言う考え方は、世の中の通念です。生きるために仕事をし、その仕事の中では与えられた業務を淡々と行う。そしてその当然の対価として給料を得て、それを基に生活をする。その中で、仕事とプライベートを切り分けて生活できるのが望ましい、そう考えるのが豊かな国で生きる人々の基本的な考えです。

 

ですから、人から感謝されることもなく、人に感謝もしないで、当たり前にように搾取できるものは搾取し、自分の自由はしっかりと確保する。周りから干渉されることも望まないし、周囲のことに干渉するつもりもない、隣に誰が生活しているのかも分からない社会になっています。しかし、そういう社会が人々と関わり合うチャンスを遠ざけ、周りの人のことが無関心な社会に、すべての面において格差のある社会、冷たい社会・人間関係になり、孤独になってゆき、独りで人生が終わってしまうのです。

 

しかし、そのような時代、社会だからこそ、人として「しなければならないこと」があるのです。それは互いをつまずかせることでも、弱さをなすりつけ合うことでも、厳しくし合うことでもなく、お互いのことを認め合って、思い合って、優しい言葉を掛け合って、謙虚に生きてゆく、お互い「取るに足りない僕」イコールお互い「思いが行き届かない者」だけれども、愛の神様と復活のイエス様と共におられる聖霊に助けられて生きる、それを喜び、感謝して生きることが、神様を信じて生きると言うことだと感じるのです。