神に喜ばれる具体的な生き方

「神に喜ばれる具体的な生き方」 四月第三主日礼拝 宣教 2024年4月21日

 ヘブライ人への手紙 13章1〜16節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。今朝もご一緒に礼拝をおささげできて感謝です。去る週、皆さんはいかがお過ごしでしたでしょうか。わたしは、目まぐるしい一週間を過ごしました。予期しなかった残念なことは多少なりストレスになりますが、全く予期しなかった感謝なことは大きな励まし・力になります。主は素晴らしいお方。主の憐れみ、恵みに心から感謝です。

 

さて、今朝のメッセージの内容は、先週の続きと言いましょうか、前回の学びからより発展的な、具体的なメッセージになります。先週は、大久保教会の年間聖句であるヘブライ人への手紙11章6節から、「神に喜ばれるように歩む」とは、どういう事なのかを聴きました。神様が喜んでくださる歩み、それはどのような時も、わたしたちが神様に、イエス様に信頼して歩むということを分かち合いました。また、そのように忠実に歩む中で、神様はわたしたちに対していつも誠実に報いてくださることも聴きました。また、神様に信頼して歩む時、喜びを奪い去ろうとするサタンの執拗な攻撃があります。しかし、わたしたちが互いのことを覚えて、互いのために祈り、支え、仕えて行くならば、神様はわたしたちに霊的成長を与え、教会全体に成長・成熟を必ず与えてくださるということを聴きました。

 

しかし、ある方からそのメッセージをもっと具体的に、分かりやすく語って欲しいとの依頼がありましたので、神様はわたしたちがこの地上で生かされている間、どのように生きて欲しいのか、歩んで欲しいのかをもっと具体的に示されている箇所が同じヘブライ人への手紙13章にありますので、今朝はそこから神様の語りかけを聴いてゆきたいと思います。その前に、三つのことを皆さんにリマインドしたいと思います。

 

第一に、わたしたちは神様によって創造され、神様の愛の中で生かされています。自然発生したのではありません。わたしたちが神様によって造られた目的は、「神様の喜び」のためです。わたしたちが自然を見たり、美術館で素晴らしい作品を観て感動を覚え、喜びで満たされるのと同じように、神様はご自分が造られたわたしたちをご覧いなるのを喜びとされるのです。わたしたちがそこの事を知るのは、イエス様と出会って、イエス様の言葉を聴いて、その生き様を聖書から知って、信じることによって初めて出来るようになります。

 

第二に、神様を喜ばせるためにわたしたちに必要なのは、信仰を神様から受け取ることです。信仰は、わたしたちの心に芽生えるものではなく、神様が与えてくださる恵みなのです。神様の愛を最大限に受け取るためには、神様を愛し、神様に信頼すること、神様を信じて、神様を仰ぐことが大切なのです。先週聴きましたヘブライ11章6節に、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」と記されていました。この信仰は、救い主イエス・キリストを通して神様から与えられる恵みであることを感謝したいと思います。

 

第三に、わたしたちの模範は、イエス・キリストです。もしわたしたちがクリスチャンであるならば、それはイエス様がわたしたちの主であり、主人であるということです。この主人に見倣うことが大切であり、イエス様に従うとは、イエス様の生き様に倣うということです。つまり、わたしたちの為すことすべては、イエス様への信仰、イエス様への愛が基礎となっていなければ、神様を喜ばせることはできないのです。この三つを覚えてください。

 

さて、神様に喜ばれる具体的な生き方、それが13章に記されています。1節から6節には倫理的な勧告がなされています。つまり、隣人に対してどのように生きることが神様の御心であり、神様が喜ばれることであるのかが記されています。今朝は16節までしか聴きませんが、続く7節から17節には、わたしたちが霊的な指導者によく聞き従うことが神様の御心であり、神様が喜ばれることであることが記されています。ここで言う「霊的指導者」とはイエス・キリストですが、皆さんの過去、現在、未来においても、イエス様の言葉を取り継ぐ指導者の言葉を重んじなさいということも含まれていることを覚えたいと思います。

 

さて、神様に喜ばれる具体的な生き方の1番目が1節にあります。「兄弟(姉妹)としていつも愛し合いなさい」とあります。これは教会の中での愛の在り方です。教会は神様の家族です。すべて、イエス・キリストを救い主と信じ、イエス様を主と告白する者たちの群れです。その教会に対して、イエス様は「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)とお命じになりました。わたしたちが愛し合っていること自体が、神様を愛し、隣人を愛する二つの戒めを実践していることなのです。イエス様につながっている者同士が、愛し合い、祈り合い、助け合い、仕え合う、その光景を見て微笑む神様がおられるのです。

 

2節に「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました」とあります。皆さんは、トルストイの「靴屋のマルチン」という絵本を読んだことがあると思います。イエス様に出会いたかったマルチンが夢の中で「明日会いに行くから」とイエス様の言葉を聞いて楽しみにしていましたが、翌日出会ったのは、高齢者、子ども、貧しい人たちでした。その一人一人に優しく接し、愛を振りまくマルチン。彼が心待ちにしていたイエス様は現れずに残念に思っていましたが、イエス様は、マルチンの高齢者、子ども、貧しい人たちに対する優しさに触れることができて嬉しかったと言います。イエス様をもてなすように旅人をもてなす愛が神様の喜びなのです。

 

3節に、「自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい」とありますが、これはイエス様を信じる信仰ゆえに迫害されている人々のために祈り、支援をし、訪問しなさいということですが、この日本にもいじめ、ネグレクト、虐待、差別に苦しんでいる人たちが存在していて、自分たちもいつそのような立場に置かれるかもしれません。そのような人たちを思いやり、その命と生活を守る活動、グッドネイバースやオレンジリボンのような団体に支援するのも大切であり、御心であると信じます。

 

4節には、「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです」とあります。ここで言う「みだらな者」とは結婚前または結婚以外の男女の性的関係を犯す人を指し、「姦淫」とは結婚後の浮気や性的不道徳を意味しています。神様が与えてくださった関係性を壊してはならないのです。

 

5節には、「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい」とあります。金銭に執着するとは、金銭に仕えること、つまり金銭を神とすることです。神様から与えられているものを喜び、感謝することが大切で、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」とは、あなたの必要はわたしが満たすと言う約束です。故に6節で、「主はわたしの助け手。わたしは恐れない」(詩編118:6)と信仰を告白するのです。

 

7節に、「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい」とありますが、皆さんに大きな影響を与えた牧師、宣教師、クリスチャンの先輩や友がおられると思いますが、その生き様を見倣いなさいという励ましです。しかし、その人たちが模範にしたのは、「きのうも今日も、また永遠に変わることのないイエス・キリスト」なのです。イエス様が究極の模範なのです。

 

9節。世の中には様々な教えがありますが、そのような人の思想に由来するものに惑わされてはならない、イエス・キリストという神のみ言葉に常に聞き従いなさいと言うことです。

 

10節から12節は一つの括りになります。「10わたしたちには一つの祭壇があります。幕屋に仕えている人たちは、それから食べ物を取って食べる権利がありません。11なぜなら、罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれるからです。12それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです」とあります。ユダヤ教のことが分からないと理解が難しくなる箇所ですが、簡単に言いますと、大祭司イエス様がわたしたちの罪の代価を支払い、聖なる神の子とするためにご自分の命をささげてくださったが故に、今わたしたちは神様の恵みの中で生きることが許されているということです。「一つの祭壇」とはイエス様の十字架の贖いの死を指し、イエス様の犠牲によって救われている恵みを喜びなさいという事です。

 

13節に、「だから、わたしたちは、イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こうではありませんか」とありますが、これはあなた救い主、あなたの命の主人イエス様に習い、自分の心理的な安全領域(Comfort zone)を出て、社会と教会の中で人々に心から仕えなさい、自分のためだけに生きることは神様の御心ではないということです。自分のために生きるとは、この地上で受ける自分の幸せのために生きることです。しかし、14節に「わたしたちはこの地上に永続する都を持っておらず、来るべき都を探し求めているのです」とあるように、神の国に招かれる日まで、イエス様が心を尽くして仕えてくださったように、あなたがたもこの地上で心を尽くして神と隣人と教会に仕えなさいという事です。

 

神様が喜ばれること、それはわたしたちが神様を心と思いと力を尽くして愛するということ、すなわち、15節にあるように「イエスを通して賛美のいけにえ、すなわち御名をたたえる唇の実を、絶えず神に献げましょう」ということです。日曜日から日曜日まで、いつも、四六時中、神様をほめたたえ、心をささげる。それが16節にある「善い行いと施し」をすることにつながり、そのようないけにえ、ささげ物を神様はお喜びになるのです。みんなでささげる礼拝、自分にできる心からの奉仕、感謝のささげものを神様は喜び、神様の御用のために豊かに用いられるのです。わたしたちがいつも問われていて、気を付けなければならないことは、わたしたちの行為・ささげものが神様からの愛と恵みへの応答となっているか、イエス様への信仰から来ているかということです。まず神様の愛を喜び、感謝しましょう。