神に義と認められる人

「神に義と認められる人」 二月第一主日礼拝 宣教 2024年2月4日

 ローマの信徒への手紙 4章1〜8節     牧師 河野信一郎

 

おはようございます。2月最初の日曜日・主の日の朝を迎えました。冷たい雨が降っていますが、今朝もご一緒に賛美と礼拝を神様におささげできる幸いを与えてくださる主なる神様に心から感謝いたします。先週はO教会へ派遣され、皆さんとご一緒に礼拝できませんでしたので、なおさら嬉しいですし、なおさら感謝です。先週の派遣のことは後ほどお話しいたしたいと思います。オンラインで出席されている方々も歓迎いたします。

 

今日から火曜日・水曜日にかけて、関東の平野部でも雪が降るということです。雪が降ると交通網が麻痺してしまうので要注意だとテレビなどで注意喚起がなされますが、震災から1ヶ月以上経った能登半島とその周辺で懸命に生きておられる被災者の方々の事を思わされて祈らされます。厳しい環境の中に置かれている方々のことを覚えて祈り続けましょう。

 

さて、1月28日から今日まで、日本バプテスト連盟の協力伝道を覚えて祈る8日間を過ごす中、去る2日と3日に日本バプテスト連盟の定期総会が対面式とオンラインで開かれ、わたしも代議員として出席しました。オンラインで総会を開催するのは初めての試みで、どうなるだろうかと最初は不安もありましたが、蓋を開けてみれば、240以上の教会が集い、活発な審議がなされ、9つの議案がすべて可決され、祝福された総会となりました。両日ともに朝の10時から夕方6時までの長丁場で確かに疲れはしましたが、わたしが委員の一人として関わった議案が無事可決されましたので安心しました。この特別委員会での役目も、残すところ今週木曜日にあるオンライン会議の90分間のみとなりますので、肩の荷がだいぶ軽くなります。地域協働委員会の委員としての働きがあと1年間残っており、去年と同じく3つの教会を日曜日に訪問することになり、大久保教会を主日に留守することになります。しかし、皆さんに朗報です。BCS宣教師と連絡が取れて、わたしが留守する時はB先生が宣教してくださることになりましたので、どうぞご安心ください。

 

さて、今の日本バプテスト連盟の歩みは、加盟する諸教会が共に主の知恵と導きを祈り求めながら乗り越えてゆかなければならない課題が山積しています。しかし、総会の閉会礼拝のメッセージで、旧約聖書の箴言23章18節の「確かに未来はある。あなたの希望が断たれることはない。」という言葉が読まれ、「わたしたち日本バプテスト連盟には確かに未来がある。主が伴ってくださるから、共に協力して歩んで行きましょう」という力強いメッセージが語られ、わたしたちは大いに励まされました。大久保教会が12年間、祈りに覚えてきた東北の地にある3つの教会も、わたしが昨年訪問した4つの教会も大変逼迫した状態の中、少ない人数でも集まって礼拝をおささげし、地域に神様の愛、イエス様を伝えることに励んでおられます。コヘレトの言葉4章12節にある「三つよりの糸は切れにくい」という言葉があるように、一本の糸は簡単に切れても、三本の糸を一本に束ねれば、強い糸になりますように、小さな教会がたくさん集まれば、強い組織となって神様の愛を日本各地に宣べ伝えることができるようになります。共に実を結び、神様に感謝をささげることができます。

 

先週の日曜日、わたしはO教会の特別礼拝にメッセンジャーとして招かれて行きました。派遣してくださったのは、神様と大久保教会の皆さんです。お祈りをありがとうございました。60名ぐらいの方々と共に礼拝をおささげしました。依頼された時、メッセージは25分ぐらいでお願いしますと伝えられましたが、普段と変わらずみっちり40分間お話をしました。わたしの献身の証も入れましたので、どうしても長くなってしまいました。礼拝後に非難を受けるかなぁと思いましたが、皆さん優しい方ばかりで、愛をもって耐えて聞いてくださいました。礼拝後も食事の時間があり、大勢の方々がお残りくださり、豊かな交わりの時が与えられましたので感謝でした。一つミスをしたことがありまして、O教会を「大久保教会」と言い間違えてヒヤリとすることが何度かあり、申し訳ないと思うと同時に、今度からは「大」から始まらない違った名前の教会に行かせていただこうと思いました。

 

さて、わたしがO教会に派遣されている間、NS宣教師がわたしたちの教会の礼拝で神様の御言葉を語ってくださいました。皆さんも、NS宣教師のメッセージの力強さもさることながら、彼の日本語の上達の凄まじさを目の当たりにして非常に驚かれたと思います。来日されてまだ2年が終わっていません、22ヶ月です。その弛みのない努力に敬服いたします。その努力に、日本語の上達に、S宣教師ご夫妻の神様を愛する思い、神様から頂いた召命感・コーリングに忠実に従う姿、日本を愛して日本に生きる人々に仕えようという熱意が強く伝わってきます。日本語の習得に励んでおられる間、今後も年に2回ぐらいのペースでメッセージしていただきたいとお願いをいたしましたが、S宣教師ご家族を愛し、その働きと生活と子どもたちの成長のために祈り、そしてどんなサポートでもしてゆくことをわたしたち大久保教会の喜びといたしましょう。

 

さて、NS宣教師はメッセージの中でイエス・キリストの福音を通して神様から与えられる「信仰」について、そして「義」についてお話ししてくださいましたが、後日、わたしはNS宣教師に一つの宿題を出させていただきました。これも日本語の訓練の一環であり、いじめではありません。(笑)誤解のないようにお願いします。(笑)その宿題とは「義」についてさらに深く掘り下げてメッセージしてくださいということです。イエス・キリストを通して神様から与えられる「義」、「義とされる」ということはどういうことなのだろうか、わたしたちはもっと知りたいと願いますし、より深く知る必要があると思います。

 

NS宣教師がメッセージしてくださるのは夏頃になると思いますので、今朝は神様がわたしに導いてくださった「神様に義とされる」という事はどういう事であるのかをローマ書からお話をさせていただきたいと思います。しかし同時に、神様に義と認められる人とはどういう人であるのかも聞いてゆきたいと願っています。

 

今朝与えられている聖書箇所は、ローマの信徒への手紙4章の1節から8節ですが、ここにはアブラハムがどのようにして神様に義とされたのかが記されています。ここでまずご一緒に正確に覚えたいのは、わたしたちが「義」とされるというのは、神様の目に「正しい者」とされるという意味であり、神様の御前に立っても「恥ずかしくない者」とされるという意味です。しかし、そうなると、わたしたちの努力で神様の御前に正しくなれる、恥ずかしくないようになれると勘違いをしてしまう危険があります。しかし、そうではありません。

 

2節で使徒パウロは「もし、彼が行いによって義とされたのであれば、誇ってもよいが、神の前ではそれはできません」と言っています。ここで言われているのは、人間の「行い」、つまり努力によって義とされることはないということです。パウロはわたしたち人間のことを「肉によるわたしたち」と1節で呼んでいますが、確かにわたしたちには弱さがあります。弱さがあるから、わたしたちは神様に対して罪を犯したのです。神様の存在を認めない人、神様を畏れない人は、今も自分の弱さの中に、罪の中に生き続けているのです。

 

その弱さをわたしたちは富の力や努力で覆い隠してしまい、自分を強く見せようと虚栄に走るので、そういう人々が競い合って、ぶつかり合って互いに傷つき、弱り果て、生きる力を失うのです。それが神様を知らない、畏れない人たちがもがき苦しみ続ける原因です。この苦しみの中で、闇の中でもがき苦しんでいる人々にイエス・キリストの福音を分かち合うことが神様の愛と赦しをすでに受け取って喜びに満たされているわたしたちの働きなのです。

 

3節に「聖書には何と書いてありますか」とあります。わたしたちが神様の愛と赦しを受け、神様の御前に正しく、そして恥ずかしくない者とされるための方法、道、知恵が聖書に記されています。わたしたちに必要なのは、自分で聖書を開いて、神様からの語りかけを聞いて、神様の御心に沿って生きる知恵と力を日々受けてゆくことです。神様にわたしたちを救う力があります。神様の言葉であるイエス・キリストにわたしたちの罪を赦し、新しくしてくださる力があります。聖霊に神の言葉を正確に教え導く力があります。聖書を日々読まずして、救いの確信も、神様の愛も、生きる力、喜び、感謝、平安も受けられないのです。

 

3節の後半に「アブラハムは神を信じた。それが、彼の義と認められた」とありますが、これは創世記15章6節の「アブラムは主を信じた。主はそれを彼の義と認められた」という言葉を引用したものです。アブラムとアブラハムは同じ人です。「主なる神は『それ』を彼の義と認められた」とありますが、「それ」とはアブラハムの信仰です。信仰とは、神様に信頼し、従ってゆくという決心です。信仰生活とは、神様に信頼しつづけ、従い続けるということです。この信頼し続ける力も、従い続ける力も、神様から与えられ続ける恵みです。

 

続く4節と5節でパウロはシフトチェンジをしています。「ところで、働く者に対する報酬は恵みではなく、当然支払われるべきものと見なされています。しかし、不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められます」とあります。人が働けば報酬を得るのは社会の中では当然のことです。しかし、神様が与えてくださる信仰という世界の中で与えられる報酬は、社会通念、一般常識とは異なるものであって、それは神様からの一方的な愛、恵みであるとパウロは教えるのです。

 

「不信心な者を義とされる方を信じる人は、働きがなくても、その信仰が義と認められる」とありますが、神様は実に寛大で憐れみのある神であるということをパウロは言っています。この寛大さ、愛の深さを批判したりすることができる人はいないと思います。もし居るとすれば、それは神様の愛ではなく、自分の力や富の力により頼んでいる人だと思います。

 

しかし、富は続いても、自分の若さや力がずっと続く者ではいません。老いという中で、今まで出来ていたことも出来なくなることが増える一方です。しかし、信じる以外に何もできなくても、憐れみをもって御前にわたしを正しい者とし、恥のない者としてくださる神様を信じる信仰によって義と認められる。周りの人々がどう思うか関係なく、神様が憐れみをもってわたしを認めてくださる。そこに神様の愛があるのです。信じるということの中に、聖書を日々読んで神様からの語りかけを聞く、絶えず神様に祈る、すべてを神様に委ねることはできます。それらが神様を礼拝するということであり、神様の御前に義とされるということです。すべては、神様から与えられる恵みなのです。そのことを覚えて感謝しましょう。

 

6節にイスラエルの英雄・ダビデ王の名が記されていますが、このダビデも人間の弱さを持ち、たくさんの間違いを犯した人であります。わたしの娘がだいぶ前に、「このダビデだけはあまり尊敬できないないんだよねぇ」と言っていましたが、この弱さを持つダビデを憐れんでくださる神様がおられます。ダビデは、神様の憐れみによって神様の御前に義と認められたわたしたちの中でも筆頭に挙げられる人です。しかし、神様の慈しみは皆に平等です。

 

このダビデが次のように神様に感謝を言い表し、神様をほめたたえるのです。7節と8節です。「不法が赦され、罪を覆い隠された人々は、幸いである。主から罪があると見なされない人は、幸いである。」と。ここでダビデが言いたいこと、この言葉を引用することでパウロがわたしたちに伝えたいこと、それはまず「義」とはわたしたちが神様に対して犯してきたすべての不法が赦され、救い主イエス・キリストによって罪を覆い隠されるという恵みが与えられるということ、そして「神に義と認められる」方法とは、わたしたちの罪をすべて十字架の血潮で覆い隠してくださった、洗い清めてくださったイエス様の犠牲を信じて悔い改めて生きるということ、それは一過性のことではなく、神様の愛と恵みのうちに生き続けるということです。神様の愛と熱意、そしてイエス様の十字架の死がわたしたちを神様の御前に正しく、恥じることのない者としてくださる。そこに愛が、生きる力があるのです。