神の定めた時の中を生きる

「神の定めた時の中を生きる」 八月第四主日礼拝 宣教 2023年8月27日

 コヘレトの言葉 3章1〜11節     牧師 河野信一郎

 おはようございます。8月も最後の主の日を迎えました。ゲストの皆さん、大久保教会へようこそ。心から歓迎いたします。オンラインで礼拝をささげておられる方々も歓迎いたします。またこの礼拝堂におられる教会の皆さん、お帰りなさい。今朝、ご一緒に賛美と礼拝を主におささげすることが出来て、心から主に感謝です。先週の日曜日は、連盟から派遣されて世田谷区にある教会を訪問しましたので、愛する大久保教会での礼拝は2週間ぶりになります。やはり、自分の教会、ホームチャーチが一番落ち着きますね。皆さんのお顔を拝見できて、とても嬉しいです。先週の派遣、お祈りをありがとうございました。

 さて、わたしはその前の週、教会から五日間の夏休みをいただきました。お祈りをありがとうございました。最初の二日間は、どうしても片付けなければならない連盟関係の仕事があって、休暇とはまったく言えませんでしたが、水曜日から金曜日までの三日間は、とても充実した時間を過ごすことが出来ました。義理の母の家では、網戸のサイズは大小色々ありましたが、合計13枚、新しく張り替えることができました。あまりにも上手く、そして短時間で完成できましたので、網戸の張り替え業を副業にしようかと思ったぐらいです。

 ホームセンターのガーデニングエリアをゆっくり見ることは、残念ながら今回はできませんでしたが、神様は本当に素晴らしいお方です、安くて素敵な苗木や観葉植物を取り扱っている花屋さんを川越で見つけることができ、今朝この講壇に飾られている立派な観葉植物たちを購入することができました。スパティフィラムという名前の観葉植物ですが、この立派さ、わたしの今年の夏休みの満足度を的確に表しています。多分、今後は大きなホームセンターで苗木や植木などを購入することは少なくなると思います。それほど、とても素敵な花々や観葉植物を扱っている花屋さんに出会うことができて、主に感謝な夏休みでした。

 さて、子どもたちも夏休みが終わって新学期が始まったと思いますが、今後も暑い日々が続きそうですから、子どもたちの健康のために祈りましょう。また、大学に入学するために先週オランダへ渡ったAさんのことを覚えて祈りましょう。石垣牧師が先週の礼拝の時に派遣と祝福のお祈りをしてくださいましたが、彼にとっても人生の新しいチャプターが始まりました。大学生活の中で、神様の伴いとお守りと祝福がありますように祈り続けましょう。

 さて、今朝もコヘレトの言葉から神様の愛の語りかけを聴いてゆきたいと思いますが、12回のシリーズも今朝で3回目となります。過去2回のメッセージを聞き逃された方は、教会ホームページに掲載されていますのでお読みください。英語に訳された原稿は礼拝堂入り口に置いてありますので、ご興味のある方はお持ち帰りになってお読みください。

 さて、今朝の箇所ですが、3章1節の「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある」という、人々によく知られている言葉があります。そしてこれに続く2節から8節では、人生の中でわたしたちが経験する様々な「時」が対句表現によって14回繰り返されています。しかし、コヘレトは、開口一番、わたしたちの人生には「生まれる時と死ぬ時がある」と言います。様々な人生がありますが、この二つはみんな平等にあります。

 「生まれる時、死ぬ時」とは、人生の始まりと終わりであって、人生全体を網羅していると言えます。この生まれると死ぬという二つの時・出来事以外は、わたしたちの努力でも変更可能のように思えるような事柄ですが、生まれることと死ぬことは、わたしたち人間が直接的に関与できない領域であり、神のご支配の中にある事柄です。この地上で生を受けてから、生を終えるまでの期間、どのように生きるか。何のために生きるか。何を目標に生きるか。大切な課題です。自由がある人もいれば、自由がない人も実際に存在します。自由が与えられているわたしたちは、自由がない人たちのために生きる必要があります。

 この地上で唯一、真の自由を持っておられ、わたしたちに自由を与え得る方は、神であり、イエス・キリストであり、聖霊です。イエス・キリストを通して与えられ、聖霊によって保たれる神の愛が、すべての人を人生の虚しさから完全に解放し、真の自由を与え、人生に意味と目的を与え、喜びと平安と希望、生きる力を与えます。生まれること、生きること、そして死ぬこと、人生の中でわたしたちが経験するすべての事柄には神様の御心とご計画があることをコヘレトは教え、主なる神に信頼し続け、日々を大切に生きることを教えます。神様の愛なくして、わたしたちの人生が完成することはありませんし、神様への信頼なくして、わたしたちの人生にお金では買えない喜び、感謝、充実感を得ることはできません。

 わたしたちが人生において真の喜び、感謝、充実感を得るためには、まず神と云う存在を認めて、そしてこのお方に信頼する必要があります。神様に信頼するのは、人生の中で良い時だけではなく、普通と思える時も、最悪と思える時も、いつも絶えず、です。人生は、山あり谷ありです。良い時もあれば、普通の時もあれば、悪い時もあります。神様は良いものだけを与えてくださいますが、わたしたちの中に潜在的にある罪、その罪へと誘惑するサタンがわたしたちに近寄り、悪に負けて罪を犯させ、悪い結果をもたらし、苦しみ、痛み、悲しみ、不安、恐れ、絶望、虚しさ、闇を与えます。しかし、そのような闇の中にも神は存在し、わたしたちを光の中へと招いてくださり、わたしの愛の中で生きなさいと招くのです。

 2節から8節までを読んでゆきますと、紛争・戦争をほのめかす言葉が多いことに気付かされます。「殺す時」、「破壊する時」、「石を放つ時」、「憎む時」、「戦いの時」などです。2節の「植えたものを抜く時」と云うのも戦いで農地が荒廃する様を想像してさせ、ウクライナの土地を思わされます。地球温暖化によって気候変動が起こり、自然災害が増えています。乾燥した地は焼けただれ、雨を必要としない地は洪水で流されます。戦争も、自然破壊も、わたしたち人間の愛のない無責任な判断から生じる業、罪の業です。

 そういう中で何が残るのでしょうか。4節には「泣く時、嘆く時」があるとあり、また7節には「裂く時」があるとありますが、これは激しい悲しみや喪に服する際に衣を引き裂く習慣を示唆します。命を与える神という存在を無視し、自分のことしか考えない人たち、他国の人々であれ、隣人を信頼できない人々は闇の中にいますから奪うことしかできません。

 あるいは、人生を諦めてしまって、自分の殻に閉じこもって残された日々を虚しさの中で生きるか、真逆に快楽に走って、つかの間の「笑う時」、「踊る時」、「抱擁の時」を楽しんで生きるしか術はないと思われます。しかし、最終的には虚しさしか残らないと思われます。いつしか必ず死を迎えるからです。9節にあるように、「人が労苦してみたところで何になろう」という思いにしか辿り着かないのです。人生には、どんなに求めても、どんなにあがいても手にすることができないものがあります。それは「時」です。また、人生には、どんなに避けようとしても、避けられない「時」があります。それは「死を迎える時」です。

 しかし、そもそも「死」とは何でしょうか。わたしたちがいつか必ず迎える「死」にはどういう意味があるのでしょうか。「死」について様々なことが様々な角度から言えると思いますが、「死」とはわたしたちに命を与えることが唯一できる命の神、愛の神から完全に切り離された状態ではないでしょうか。そしてこの愛と命の神からわたしたちを引き離すのは、わたしたちの中にある「罪」なのです。その罪が人生に虚しさを与えるのです。

 コヘレトは、「わたしは、神が人の子らにお与えになった務めを見極めた」と10節で言っています。人が生まれてから死ぬまでの営み、主なる神が人にお与えになったことのすべて観察し、詳しく調べてみたということです。しかし、11節では、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる。それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」と言っています。わたしたち人は自分たちの営みは見極めることができるのです。しかし、神のなさる御業と時は、最初から最後の最後まで、人は見極めることができないばかりか、許されないと云うのです。神はわたしたちに「永遠を思う心を人に与えられる」のに、神のなさる御業と時を見極めさせてくれない。

 コヘレトは、神のなさる御業と時は、わたしたちから隠されていると云うのです。なぜ隠されているのでしょうか。なぜ神はつまびらかに明らかにしてくださらないのでしょうか。すべて明らかにしてもらったほうが、わたしたち人間にも都合が良いのではないでしょうか。しかし、わたしたちの都合よりも、神様の御心、ご計画、時のほうがもっと重要なのです。

 今週金曜日、9月1日は、関東大震災から100年を迎える日です。100年前のこの日、午前11時58分、東京、神奈川、千葉、埼玉、茨城をまたぐ大きな範囲で大地震が起こり、死者・行方不明者の数は約10万5000人に上りました。しかし、それだけでなく、アジアの諸国から労働者として来ていた、連れてこられていた大勢の人々が虐殺されました。しかし、100年も前の出来事、実感がわかないと言われれば、返す言葉がありません。また、再来週の9月11日は、2001年にアメリカで起きた同時多発テロから22年目を迎えます。イスラム過激派テロ組織アルカイダによって約3000人が犠牲になり、泥沼の戦争が始まりました。大切な人を一瞬で亡くされて悲しみの中にある方も大勢おられます。

 なぜそのような事件を今朝わざわざ牧師は持ち出すのか。地震や台風などの自然災害、悪意をもって行われる悲惨な事件というのは、その当時、その場所では何が起こっているのか分からず、わたしたちは後になって歴史の中で事実を知るようになります。つまり、今という「時」をわたしたちがどんなにつかもう、理解しようとしても、決してその「時」、その「一瞬」をつかむことはできないのです。つまり「時」はわたしたちから完全に隠されていて、それを見極めることはわたしたちにはできない。出来事が過ぎ去ってから、ようやくその事実、本質に気付かされるのです。つまり、時はすべて神様の御手の中にあるのです。

 もし、わたしたちが「時」をあらかじめ認識できるスキル・力があれば、地震や自然災害が起こる所から一目散に離れるでしょう。テロ行為や犯罪が行われて命の危険を感じる所には決して向かわないでしょう。死ぬのが恐ろしいから、まだ生きていたいと思うからです。そうではないでしょうか。つまり、時を見極めることができれば、すべての危険を回避することができます。しかし、わたしたちにはそういう力はありません。なぜ無いのか。なぜ神様はそのような力を与えてくださらないのか。答えは簡単です。

 時を見極める力を持つと、わたしたち人間はすぐに傲慢になって、神様が与えてくださる恵みの日々を、一瞬一瞬を疎かにし、当然の権利かのように思い違いをし、今を真剣に、その日を大切に生きようとしないからです。明日もある、来週、来月、来年もあると思い込み、主の恵みを無駄にして生きてしまう罪深さがあるからです。

 今朝、神様の愛と導きの中で、このように皆さんと礼拝をおささげすることができていますが、来週の日曜日も共に礼拝をおささげできるとわたしたちの内、誰がそのように断言することができるでしょうか。誰もいないと思います。それができるのは、愛と誠とをもってわたしたちを生かしてくださる憐れみの神にしかできません。わたしたちがいま生きているのは、神様がいまを生かしてくださっているからです。すべては神様の恵み、憐れみなのです。それ以外には何もないのです。ですから、わたしたちは神を神として畏れ敬い、この憐れみの神に信頼しながら一日一日を大切に生きる、過去のことは過去のこと、これからのことはこれからのこと、今を神様に感謝して、喜びに満たされて生きる。その神様の愛に気付かせ、その愛のうちに招くために救い主イエス・キリストは神様からわたしたちのもとへ派遣され、今日もわたしたちの側に共にいてくださる。この主イエスが永遠の祝福、永遠の命への道を示し、共に歩み、わたしたちを導いてくださるのです。この救い主と共に歩むことが神様の定めた時の中を生きることであり、恵みの中を生かされることだと信じます。