「神の御心に従って歩もう」 四月第一主日礼拝 宣教 2019年4月7日
コロサイの信徒への手紙1章9b〜10節 牧師 河野信一郎
2019年度の最初の主の日です。3月6日から始まりました受難節も、残すところ2週間です。そのような期間であることを忘れさせてしまう様々な誘惑や試練が日々の生活の中でありますが、今週と来週、主イエスさまがわたしの代わりに十字架への道を歩まれているんだ、申し訳ありません、ありがとうございますという思いを持って、イエスさまに心をどうにか集中させていただきたいと思います。
しかしながら、私たちの思いだけではすぐに忘れてしまいますから、神様の助け、ご聖霊の励ましと導きが必要です。そのためには「祈る」ということが重要です。次の14日の主日、棕櫚の日礼拝では、ゲッセマネの園で祈られたイエスさまに焦点を当てて宣教をする準備をしていますが、今週と来週の水曜日の朝と夕べの祈祷会、そして19日の金曜日の夜19時からもたれる受苦日祈祷会にぜひご出席ください。ご一緒に受難節の聖書箇所を読み、祈りを主におささげいたしましょう。主イエスさまのご復活を喜び祝うイースター礼拝は、2週間後の主日21日です。
さて、今朝は総会で承認された新年度の年間聖句と年間標語から宣教をさせていただきます。私たち大久保教会の新しい2019年度の歩みに与えられたこの年間聖句と標語というのは、今年度のためだけの単発的なものではなく、2015年度の大久保教会が教会組織50周年を迎えた年から「つながりのあるものを」という強い思いと祈りから与えられたものです。
50周年後、2016年度は「つながろう つなげよう 主イエスさまに〜みんなが喜びで満たされるために〜」という標語で、ヨハネによる福音書15章4節に聴き従いました。2017年度は「主を仰ぎ見て 共につながり 共に歩もう」という標語で、ヘブライ人への手紙12章1b〜2aに聴き従いました。2018年度は「キリストの恵みを共に分かち、神をたたえよう」という標語で、ローマの信徒への手紙15章2、5〜6節に聞き従いました。まだローマの信徒への手紙を聴き終えていませんので、18年度にもつながりのあるものを祈り求めました。そしてその結果、2019年度の標語として与えられたのは、「神の御心に従って歩もう〜共に喜び、祈り、感謝する教会〜」というもので、コロサイの信徒への手紙1章9b〜10節が年間聖句として与えられました。
主イエスさまは、「わたしにつながっていなさい」と弟子たち、私たちにお命じになられました。それは私たちみんなが救われ、みんなが喜びに満たされるためです。それは主の御心です。「共につながり 共に歩む」ためには、いつも主イエスさまを仰ぎ見て、信頼してゆくことが重要です。それも主の御心です。「神様をたたえる」こと、つまり礼拝を大切にすること自体が「神様を神と信じ、愛する」ということであり、「キリストの恵み(救い)を分かち合う」こととは、隣人を愛することであり、また教会の中でも互いに愛し合うことであります。これも私たちに対する神様の切なる願いであり、主の御心です。
2019年度の標語には副題が付いていまして、「共に喜び、祈り、感謝する教会」を形成することを共に信仰を抱いて目指します。これは第一テサロニケの信徒への手紙5章16節から18節のみ言葉から来ています。すなわち「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」とあります。主なる神様が望んでおられること、つまりそれが主の御心です。御心というのは、私たちにそのように生きて欲しい、歩んで欲しいという神様とイエスさまの願いです。この御心を大久保教会として共に聴き、そして従って歩んで行きたいという思いが込められています。大久保教会は、これまでも「神の御心に従って歩もう」、「共に喜び、共に祈り、共に感謝する」、そういう教会でしたし、これからもそういう教会になるべく共に主を信じ、聴き従い、心から仕えてゆきたいと願います。
しかし、私たちの生きている現実は生易しいものではありません。四六時中、誘惑や戦いの連続です。教会というキリストのからだから派遣されて日常生活に戻ると、神の家族を離れると、瞬く間に思い煩い、些細なことで不安になったり、主の望まれる「喜んだり、感謝すること」ができなくなってしまうということが次々と襲いかかって来ます。私たちを主イエスさまから引き離そうとするサタンの仕業です。自分の思いと人の思い、気持ちがなかなか一致しないで摩擦が起こり、ストレスを感じて悶々とする時を過ごし、夜眠れなかったり、目の前のことに集中できなかったり、人の目や思いが気になってしまって仕方がないという外部のものに翻弄されてしまう時間を過ごしてしまいます。
いつも喜び、絶えず祈り、どんなことにも感謝したいと心から願いつつも、そのようにできないで、その反対に、いつも不満を抱いたり、怒ってばかりという時間を過ごしてしまい、自分はダメだと罪悪感を覚えます。それだけではなく、実際に自分の目の前で起こることや耳にすることが、真実とかけ離れた事であったり、疑わしき事柄であったり、どんなに頑張っても失敗したり、なかなか評価してもらえない、認めてもらえないという状態の中で、心が大きく揺さぶられ、問われる日々が続きます。
そういう中で、神様の御心とは大きな隔たりを感じ、その御心と現実の狭間で苦しみ悩むことがあります。神様の御心は何なんだろう、御心はいったいどこにあるのだろうと判らなくなる事が起こります。それはとっても大変で、辛い事です。信仰が試されます。
しかしそれでも、主イエスさまがいつも私たちと共にいてくださいます。そのことを忘れてはいけないのです。私たちにはイエス・キリストの福音が与えられていて、その福音によって救いが与えられ、希望が与えられているからです。主の御心が見えない、聞こえない、感じられない時、求めても与えられない時、そういう時をこの新年度も度々経験する事でしょう。「もうやってられない! どうして?」と思う事、憤慨したり、失望させられる事、涙する事もあるでしょう。「いつまで待てば良いのですか?」と神様に気持ちをぶつける事もあるでしょう。そういう事があっても良いと神様とイエスさまはお考えでしょう。そういう中で、私たちの信仰は問われ、砕かれ、不必要なものは全て取り除かれ、整えられ、新しくされてゆくのだと信じます。それも主の御心なのだと思います。
試練の中に置かれた時に、私たち一人ひとりがどのように反応するのか、リアクションをとるのかを神様はご覧になられます。私たちに大切なことは、信仰に踏みとどまるという事、イエスさまから離れないでつながり続けるという事、どんなことがあってもイエスさまに信頼し続けるという事です。イエスさまにつながっていると必ず祝福され、成長し、神様の喜ばれる実を結ぶようになります。私たちが実を結ぶのではなく、神様が、主イエスさまが、ご聖霊がそのようにしてくださるのです。
自分の力ではどうすることもできないことは全て主にお委ねし、自分に出来る事に集中して取り組み、神様には忠実に、人々には誠実に、そして自分に対しても信実に生きてゆくこと、それこそが私たちがなすべきこと、神様の願い、御心なのではないでしょうか。
パウロ先生は、弟子のテモテと一緒にコロサイの教会へ手紙を書き送ります。そしてコロサイの教会が信仰に踏みとどまり、希望を抱きつつ、イエスさまから受けた神様の愛を持って互いに愛し合っていることを感謝した後、教会のために心を尽くしてお祈りをしています。その祈りが9節から12節です。そして私たちの新年度の年間聖句は、その9節の後半と10節なのですが、その祈りの最初の一部が私たちの年間聖句と標語なのです。皆さんの中には、「どうして祈り全体を年間聖句にしなかったの?」と不思議に思われる方もおられるかもしれませんが、その理由は、この最初の部分、つまり9節の後半から10節が、11節と12節の土台となっていると私は聴き取るからです。
9節後半から10節を読みたいと思います。「どうか、“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、神の御心を十分悟り、すべての点で主に喜ばれるように主に従って歩み、あらゆる善い業を行って実を結日、神をますます深く知るように。」これがパウロ先生の祈りであり、今日においては神様と主イエスさまの御心であると信じます。
神様の御心を十分に悟るために私たちに必要なのは、まず信仰、そして“霊”によるあらゆる知恵と理解力であるとあります。ここに「“霊”による」とありますように、私たちにはない知恵と理解力で、神様から頂戴しなければならない知恵と力です。ですから、私たちは神様の御心を十分に悟り、御心に十分に生きるためには、神様に祈り求めることが大切であるという事です。この新しい年度も、主の御心を行えるように祈り求め、祈りから始め、祈りにおわる信仰生活を歩んでまいりましょう。
「すべての点で主に喜ばれるように歩んで」ゆくために大切なこと、それは主イエスさまに従って歩んでゆく事です。そして「主イエスさまに従って歩んでゆく事」という事は、主イエスさまが神様の御前を歩まれたように歩んでゆくという事です。主イエスさまは、どのように歩まれたでしょうか。私たちは、主イエスさまがどのように歩まれた、どのように生きられたのかを聖書から聴いてゆくことが求められていますので、この新しい年度も、そのことを共に聴いてまいりましょう。イエスさまを知ることが、神様をますます深く知ることにつながり、喜びに満たされ、励まされ、神様の喜ばれる実を結ぶことが共に出来ると信じます。
この新しい年度も、ご一緒に、主イエスさまに信頼し、主の言葉に聴き、主の導きに従って歩んでまいりましょう。その歩みの只中にも日々祝福がありますが、その歩みの先の最終地点である御国に神様の大いなる祝福が用意されています。