神の言葉を無にしない

「神の言葉を無にしない」 二月第四主日礼拝 宣教 2022年2月27日

 マタイによる福音書 15章1〜9節     牧師 河野信一郎

おはようございます。2月最後の主の日の朝を皆さんとご一緒に神様におささげできて、主の恵みに感謝です。いかがお過ごしでしょうか。日差しがだいぶ柔らかくなってきました。昨日の外はあまりにも気持ちが良かったので、教会の花壇を少しきれいにしていましたら、数種類の小鳥たちが教会の木々に来て、美しいさえずりを聞かせてくれて、とても幸せな気持ちになりました。紫陽花も新しい芽がたくさん出て来ました。椿の蕾もだいぶ膨らんできて、咲き誇る春の日が近づいていることを感じ、皆さんのお帰りがさらに楽しみになりました。

さて、今週火曜日から3月に入りますが、2日の水曜日から今年の受難節・レントが始まります。コロナウイルス・オミクロン株の感染がなかなか収まらないという暗雲が頭上を漂い、精神的にも重苦しい日々が強いられ、「もういい加減勘弁してほしい」と正直感じますが、そのような試みの中にあっても、わたしたちに罪の赦し、救い、そして希望を与えてくださるために主イエス様が祈りと忍耐と父なる神様への信頼を胸に抱きつつ十字架の道を歩んでくださったことを覚えましょう。「覚えましょう」というよりも、主イエス様に集中しましょう。

イエス様から目を逸らすとすぐにサタンがわたしたちの心に不安と恐れの種を植え付けようとします。混乱を与えようとします。しかし、主イエス様と主の恵みに集中してゆくと、そのように祈り求めてゆくと、聖霊がわたしたちを助けて心を守ってくださいます。イエス様ご自身がサタンの試みに何度も遭われたのですから、わたしたちが試みや試練に遭わないはずはありません。神様から引き離そうとする力は、病気や怪我や不幸を用いてわたしたちの心を試し、主の恵みから引き離そうとしますから、常に主のみ言葉に聴く必要があります。

さて、今朝の宣教は、現在進行形で起こっているロシアのウクライナ軍事侵攻に触れないで進めることはできません。ウクライナで今起こっていることは、決して「対岸の火事」ではありません。戦争に勝者はありません。ウクライナのために、戦火で怯えながら生きる人々のために、クリスチャンとキリスト教会のために、そしてロシアのためにも祈らなければなりません。それがわたしたちの責任です。わたしたちは、神様に祈る以外にできることはないくらいに悪の力に無力です。しかし、わたしたちに命を与え、目的をもって生かしてくださる神様がおられ、神様の愛と憐れみが日々与えられています。神様のみ言葉があります。

礼拝への招きの言葉として詩編33編16節から18節を読ませていただきました。「王の勝利は兵の数によらず、勇士を救うのも力の強さではない。馬は勝利をもたらすものとはならず、兵の数によって救われるのでもない。見よ、主は御目を注がれる。主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に」とありますが、わたしたちに真の勝利を与えられるのは、慈しみ深い神様だけであり、気鋭の兵士がどれだけいるかとか、戦いの馬がどれだけあるかではない。つまり勝利は人間の力ではなく、神様の愛の力によって与えられると詩人は信じているのです。

皆さんの中にロシアの暴挙に怒り心頭の方はおられるでしょうか。これからどうなってしまうのだろうかと不安な方はおられるでしょうか。そのような方がいらっしゃったら、ぜひ詩編37編をお読みください。少し長い詩ですが、平安と希望が必ず与えられると思います。

さて、兵士や重戦車が国境を越えて侵攻する中、ロケットや銃口が無差別に向けられる度にかけがえのない命が無残にも奪われてゆき、戦争に関わるすべての人の心が深く傷つき、痛く苦しみます。自然は破壊され、人も自然も血と涙を流します。実は神様も同じなのです。神様とイエス様は、傲慢な人間の愚かさと無責任さに頭を抱えられ、憂いておられるのです。

ロシアのプーチン大統領は、ロシアを再び強固な国に、国民にとって素晴らしい国にしなければならないという強い信念と愛国心がありますが、それは地上での主権や力に囚われ、固執していることを証明しています。日本のメディアは、今回のロシア侵攻によって小麦の生産国であるウクライナや原油の輸出国であるロシアの生産が滞ることによって価格が高騰し、日本にも影響を及ぼすと報道し、わたしたちの暮らしが悪化することを懸念し、ウクライナの人々のことではなく、自分たちの暮らしの質の維持に心が囚われていることが分かります。

先週、私の心に強く残った言葉は、ウクライナのゼレンスキー大統領の「ロシアが一方的にミンスク合意(ウクライナ東部の停戦合意)を破棄し、ウクライナのみならず国際的な平和解決への努力が無駄になった」という言葉でした。「今までの努力が無駄になった」という言葉。「無駄」というわたしの宣教のテーマに一致する言葉でした。つまり自分たちのこと、自分の国のことしか考えない傲慢な信念、愛国心、消費者意識は、無意味な戦争を引き起こすだけでなく、神様の恵み、神様の愛を無駄に、無益に、虚しいものにしてしまう罪なのです。

最後にもう一つだけ。ウクライナの人々と平和のために祈る時、ロシアの人々のためにも祈りましょう。ウクライナでも、ロシアでも、苦しみ、涙している人たちがおられます。大勢のクリスチャンが現地で礼拝と祈りをささげています。ガラテヤの信徒への手紙6章2節でパウロは「互いに重荷を担いなさい。そのようにしてこそ、キリストの律法を全うすることになるのです」と強く勧めています。「キリストの律法を全うする」とは、イエス様が愛してくださったように互いに愛し合うということです。つまり互いに重荷を担い合い、祈り合うことが愛し合いことであり、隣人を愛することであり、それが心と思いと精神を尽くして神様を愛することなのです。「対岸の火事」と見るのでなく、重荷を担って神様に祈りましょう。

さて、今朝はマタイによる福音書に記録されているイエス様の言葉に聴いてゆき、ただ聴くだけでなく、み言葉を実践する者として作り変えられてゆきたいと思います。今朝の箇所はマタイによる福音書15章の1節から9節です。同じ内容の出来事がマルコによる福音書7章にも記録されていますが、マタイのほうがコンパクトにまとめられているので、今回はマタイ福音書にしました。ここからたくさんの発見と示唆が与えられると主に期待いたします。

1節から2節を読みたいと思いますが、14章からの流れでゆきますと、イエス様とその一行はゲネサレトという土地のあるガリラヤ地方にいましたが、ファリサイ派の人々と律法学者たちがわざわざエルサレムからイエス様のもとに来て、イエス様に何と言ったかが記されています。「1そのころ、ファリサイ派の人々と律法学者たちが、エルサレムからイエスのもとへ来て言った。2『なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人の言い伝えを破るのですか。彼らは食事の前に手を洗いません。』」とあります。彼らが遠路はるばるエルサレムから来てイエス様に言ったのは、あなたの弟子たちは「昔の人の言い伝えを守っていない」ということでした。これは間接的な訴えであって、弟子たちが守っていないのは、つまり師であるあなたがそのように教え、あなたも実際に守っていないからではないかと訴えようとしたのです。

ファリサイ派の人々は「清め」ということに関心があり、誰が神様の目に「清い者」で、誰が「汚れた者」であるかを判断し、裁くことをある意味「生きがい」としている人々でした。ですから、イエス様はこの15章の10節から20節で、人を汚すものは何であるのかを群衆と弟子たちを呼び寄せて教えるのですが、今朝はそこまで踏み込みません。ただ、ファリサイ派の人々が「手を洗わない」ことを問題視しているのは衛生面で汚れているというのではなく、宗教的に、祭儀的にイエス様も、その弟子たちは汚れているという主張であったのです。

さて、誰が神様の目に「清い者」で、誰が「汚れた者」であるかを判断し、裁くためには基準となるものが必要であり、それはより整合性のある平等で、正確で、信頼のおけるものでなければなりません。しかし、ファリサイ派の人々も、そしてこともあろうか律法学者たちも神の律法ではなく、「昔の人の言い伝え」を基準にしていたということが彼ら自身の言葉からよく分かります。「昔の人の言い伝え」というのは、律法を理解するための人間の「解釈、説明、適応の言葉」です。日本の政治家でも憲法を自分の都合の良いように解釈し、自分の価値観、信念、野望をゴリ押しする人がいますが、「こうでなければならない」という「伝統」にファリサイ派の人々はしがみつき、固執していたということがよく分かります。

それに対してイエス様はカウンターパンチならぬ逆質問をするのです。3節をご覧ください。「3そこで、イエスはお答えになった。「なぜ、あなたたちも自分の言い伝えのために、神の掟を破っているのか」とあります。イエス様がここで言っておられるのは、「あなたがたの判断の基準は「神の掟」、つまり律法ではなくて、これまでの「言い伝え」、「伝統」なのですね。なぜ伝統にしがみつき、律法をないがしろにするのですか」という質問です。

イエス様は彼らの大きな勘違い、間違いを指摘しようとして続けて次のようにおっしゃいます。4節から6節の前半です。「4神は、『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っておられる。5それなのに、あなたたちは言っている。『父または母に向かって、「あなたに差し上げるべきものは、神への供え物にする」と言う者は、6父を敬わなくてもよい』と」とあります。ファリサイ派の人々には「コルバン」という伝統的な言い伝えがあるのですが、その「コルバン」なる言い伝えが神様の律法を乗り越え、神様のご意思に反することをしていてもそれを良しとしてしまう。律法の下にあるべきものを律法の上に置いてしまう大きな間違い、勘違いをしていると言われるのです。

イエス様は、ファリサイ派の人々に、そしてわたしたちに「あなたがたは霊的に飢えているのに、神様が与えてくださっている『食物』ではなく、その食べ物が入れられている『器』に魅了されているので、いつまで経っても霊的に満たされず、満たされないがゆえに人の粗探しをし、人々を裁いてばかりいる。そういう心が神様の目に汚れているものなのです」とおっしゃりたいのだと思います。そういう意味を込めて、「こうして、あなたたちは、自分の言い伝えのために神の言葉を無にしている」と6節の後半で指摘しているのだと思います。

年老いた父や母を大切にすることは子どもの責任ですが、自分の親だけでなく、社会の中でもっとも弱く小さくされ虐げられている人たちに心を寄せて愛さないで、守らないで、憐れまないで、自分たちの信念や伝統的な言い伝えを守ることが神様のご意思、願いと一致していると本当に思っているのですか、もしそう思っているならば、あなたがたは見事なまでの偽善者だとイエス様はおっしゃるのです。7節から9節を読みましょう。

7偽善者たちよ、イザヤは、あなたたちのことを見事に預言したものだ。8『この民は口先ではわたしを敬うが、その心はわたしから遠く離れている。9人間の戒めを教えとして教え、むなしくわたしをあがめている。』」とイザヤ書29章13節を引用してイエス様はおっしゃいますが、これは当時のファリサイ派の人々や律法学者たちだけでなく、今日を生かされているわたしたちに対する言葉でもあります。神様の愛・救い主イエス・キリストではなく、自分の中に生きる人間の伝統、価値観、信念、根性などを優先的に考え、大切にする時、神様を信じているとたとえ告白し、礼拝していても、それはすべて虚しい告白であり、虚しいささげものになるとイエス様はおっしゃるのです。

6節に「神の言葉を無にしている」という言葉と、9節にも「むなしく」というイエス様の言葉があります。この「無にしている」というギリシャ語は「アクグロー」という言葉が使われていますが、これは「契約を破る」という意味の言葉です。つまり、神様に愛され、憐れまれ、罪赦され、恵みを受けて生かされているのに、それを自分のために、伝統や価値観を守るために、自分の信念を貫くために用い、周りの人々を顧みないで苦しめているならば、それは神様の御心に反した契約違反、むなしい事とイエス様はおっしゃるのです。わたしたちが礼拝をささげることも大切ですが、それ以上に大切なのは、神様の愛を隣人と分かち合い、その人たちを礼拝へと誘い、その人々が神の礼拝者とされるために生きることなのです。

もし自分のためだけに信仰生活を送り、教会で礼拝をささげ、祝福を祈っているならば、それは神様の御心ではなく、虚しいことなのです。神様の愛と恵みに生き、恵みに応答する者になりましょう。いえ、自分の努力でなく、神様に変えていただくように祈り求めることから始め、世界の平和、救いのために祈る者とされてゆきましょう。そこから神様のくすしき御業が始まります。信じましょう。