「苦しみから得られる恵み」 六月第一主日礼拝 宣教要旨 2014年6月1日
ピリピ人への手紙1章29節 牧師 河野信一郎
「苦しみ」には大小様々あり、ここ数日で生じた苦しみもあれば、何十年も引きずっている苦痛・苦悩もあり、また苦しみの終わりが見えないことも悩みです。しかし、いつ、どのような形で終わるのかを考えあぐねるよりも、何故苦しみが自分に与えられたのかを考え、答えを求めるほうが重要であると思います。わたしたちの身に起こるすべての出来事には理由があり、意味があります。ただ、苦しみの原因の多くは、私たち人間にあることを覚えるべきでしょう。
社会や他人から苦しみを負わされることもありますが、自分の配慮の無さや軽率な行動、単純ミスによって苦しみが生じ、解決を先延ばしにすることで苦しみが増加することもあります。
私たちは「苦しみ」を人生の汚点と考え、それを消し去りたい、忘れ去りたい、できれば隠し通したいと思いますが、本当に苦しみから解放されたいと願うのであれば、最短の方法は今すぐに立ち止まって、自分と真剣に向き合い、自分の弱さ・小ささを認め、自分よりももっと大きな存在を知り、その存在の中で生かされる必要があります。その後に何が私たちに必要か?
それは「悔い改める」ことです。悔い改めて、すべてを大いなる存在に明け渡すことです。
それでは、その「大いなる存在」とは誰なのでしょうか? 聖書には、私たちの創造主・神であり、私たち罪人の罪を贖うために十字架に架けられて死んでくださった救い主イエス・キリストであると記されています。救い主を信じて従って行く事が大切であると記されています。
この救い主がご自身の弟子たちに「あなたがたにはこの世では悩みがある」とおっしゃいました。クリスチャンであるが故に人一倍たいへんなことを経験したりすることがあり、クリスチャンでないほうが「楽」に生きられるかもしれません。しかし、拠り所である神を、救い主を信じる人のほうが信じない人よりも幸いであると聖書に記されています。何故ならば、救い主イエスを信じる者たちは、いつ苦しみが終わるか、その答えを持つ必要はないからです。主イエスは「わたしは『すでに』この世に勝っている」と弟子たちに宣言されたからです。
使徒パウロがピリピ教会に手紙を書き送った時、彼は獄中にいました。彼の負った多くの苦しみは第二コリント11章24〜28節に記されています。わたしたちはそれ程までの苦しみを負ってはいないかもしれませんが、それなりに辛く苦しいことを負っているかもしれません。けれども、何故それを負っているのか、今まで何故負ってきたのか、そして何故これからも負い続けてゆかねばならないのかを知る必要がわたしたちにあるのです。
ピリピ教会には様々な課題がありました。キリスト者を迫害する者たちの存在があり、教会内部でも様々な問題がありましたが、そういう中でパウロは「あなたがたはキリストのためにただ彼を信じることだけでなく、彼のために苦しむことをも賜っている」と明言します。
「キリストのために」という言葉に、わたしたちの苦しみの理由と目的が記されています。苦しみは、自分の弱さを知り、悔い改めて神に立ち返るためにあり、これは恵みです。苦しむのは、傲慢さが砕かれ、キリストによって新しく造り変えられ、人生の使命と目的、生きる力が与えられるためで、これも主からの恵みです。苦しみを通して、神が近くにいてくださること、そしてその愛を体験するためであり、恵みです。「キリストのために苦しむのはご免だ」という人もいるでしょうが、わたしたちを罪と永遠の死から救ってくださるために主イエス・キリストが十字架上で何をしてくださったかを知って信じれば、キリストのために苦しむこと、仕えることが恵みであり、幸いな人生であることを体験します。救い主が共におられます。