順境と逆境を与える神を信じて生きる

「順境と逆境を与える神を信じて生きる」 十月第一主日礼拝 宣教 2023年10月1日

 コヘレトの言葉 7章1〜14節     牧師 河野信一郎

 おはようございます。今日は10月1日。10月最初の主の日に、皆さんとご一緒に賛美と礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。コロナとインフルエンザが流行っているためにオンラインで礼拝の方々もおられますが、感染された方々の速やかな回復と、皆さんが感染から守られますようにお祈りいたします。さて、2023年も残すところ3ヶ月となりますが、今日から2023年度の後半に入ります。年間標語「神の愛を身に着けよう〜神と隣人と教会に仕えるために〜」と、コロサイ3章14節の年間聖句「愛を身に着けなさい。愛はすべてを完成させるきずなです。」を生活の中心に置きつつ、共に歩んでまいりましょう。

 さて、先週は感謝なことが幾つもありましたが、その一つはハワイのホノルルにあるPFB教会から派遣されたSL牧師と伝道チームの7名が木曜日の夕方に大久保教会を訪問してくださり、親しい交わりを持たせていただきました。写真をご覧ください。SL牧師は、神学校時代からの友人で、一年先輩です。25年来の交友関係を持っていますが、5年ぶりに再会して、互いを励まし合うことができて感謝でした。東日本大震災の翌年にハワイから派遣されてH市で開拓伝道をされているN牧師夫妻も一緒に来てくださいました。チームは青森・八戸、仙台、大阪、姫路にある諸教会をサポートするため来日されました。お別れする前に大久保教会の祝福を祈ってくださいました。

 驚いたのは、仙台のT教会をハワイからサポートしておられると聞き、わたしたち大久保教会もT教会をサポートしていると言ったら非常に驚いていました。PFB教会からT教会に派遣している教会員がおられるそうで、世界は狭いなあと感じました。毎年来日するのは難しいと思いますが、次回来日された時には朝の礼拝で、SL牧師にはメッセージ、メンバーには証しを分かち合っていただくようにお願いしました。今朝は、姫路にあるバプテスト教会で朝と夕に奉仕して、明日帰国されるそうです。祝福をお祈りください。

 さて、今朝も旧約聖書の「コヘレトの言葉」に聴いてまいりますが、先週は難解な6章に聴きましたが、簡単に要約しますと、わたしたちの地上での命には限りがあり、最後はみんな死を迎える。人生の中で不幸を何度も経験する。たとえ長寿を得ても、人生に生きる意味、目的を知らないままであれば、大きな不幸である。しかし、だからこそ、わたしたちに命を与え、生かしてくださる主なる神様に信頼し、どうあがいても戻れない過去にずっと捉われず、またどうなるか分からない未来に大きな期待を抱かず、神様の愛と憐れみによって生かされている今・今日を喜んで、感謝して生きる。神様が生かしてくださるこの確かな一日に集中し、大切にし、神様には忠実に、人々には誠実に、コツコツと日々歩んでゆきなさい、それが神様から与えられた命を、人生を幸いに歩むコツであるということを聴きました。

 今朝は7章に聴きますが、これまた難解な箇所です。難しい、難しいと毎回言われると、メッセージを聴く気になれないと皆さんから言われそうですが、ではなぜ難しいのかと言うと、二つの理由があります。第一の理由は、この7章は、「人はどのように生きることが幸いなのか」ということをテーマとした格言が多く集められた「格言集」であるからです。

 第二の理由は、その格言の多くはヘブル語の「語呂合わせ、言葉遊び」になっているので、日本語などに訳すとその言語では言葉遊びにならないので理解が難しくなるのです。日本語の例えで言うならば、「かれーはかれ〜」(カレーは辛れ〜)、「おかねはおっかね〜」(お金はおっかね〜)、「このハマチ、ハウマッチ?」といったオヤジギャグレベルになります。

 例えば1節の「声は香油にまさる」と言う新共同訳聖書の言葉は、新改訳聖書では「良い名声は良い香油にまさる」と訳されています。原典のヘブル語では「トーブ・シェーム・ミッシェメン・トーブ」と記されていますが、「名声」(シェーム)と「香油」(シェメン)という言葉の語呂合わせがあります。また、「良い」と「まさる」という言葉は「トーブ」と言う言葉が用いられ、この言葉で「名声」と「香油」が挟まれた形になっています。新共同訳聖書では一つの「トーブ」しか訳されていないので、理解するのがより一層難しいのです。

 また、これらの格言をより良く理解するためには、三つの要素が必要と考えます。1)まずわたしたちに「まっすぐな心、素直な心」が必要であること、2)複数の聖書訳を読み比べてみること、3)神様の知恵と聖霊の助けが必要となります。

 7章29節でコヘレトは「見よ、見いだしたことがある。神は人間をまっすぐに造られたが 人間は複雑な考え方をしたがる、ということ。」と言います。物事は常にSimple is the bestなのですが、わたしたち人間は自分の知恵、過去の経験、そして理想をベースに物事を複雑に捉え、極めて単純で、ストレイトなことを、あーでもない、こーでもないとこねくり回し、必要以上にややこしくしてしまいます。今回の格言は、確かにそれぞれ難しいですが、今回は1節から14節までに集中して、一つ一つの格言を極力シンプルに、あるいは他の言葉でリフレイズしながら、神様からの語りかけを共に聴いてゆきたいと願っています。

 さて、1節の「声は香油にまさる」は、新改訳聖書では「良い名声は良い香油にまさる」と訳されていると先ほど申しましたが、リビングバイブルでは、「良い評判は、最高級の香水より値打ちがあります」と訳されています。「良い名声」とは「良い評判」、「良い香油」とは「最高級の香水」という意味です。たとえ高価な香水であっても、体につけた匂いは時が過ぎれば消えてしまうが、その人の良い評判はずっと人々の心に残ると言うことです。

 その兼ね合いの中で次の「死ぬ日は生まれる日にまさる」という格言を見てみましょう。この言葉を聴いて驚かれる方もおられるでしょう。これをリフレイズすると「地上での最後の日は最初の日にまさる」となります。すなわち、自分の命は神様から与えられた有限の命であると捉え、実直に生きる人の地上に残す評判は良いけれど、命は自分のもの、自由気ままに生きれば良いとチャランポランに生きる人の評判はすぐに消えてしまうということです。

 2節に「弔いの家に行くのは酒宴の家に行くのにまさる。そこには人皆の終りがある。命あるものよ、心せよ」とあります。昔、わたしは親に「何かの理由で結婚式に出席できなくても、葬儀は極力出席するように努めなさい」と言われたことがあります。結婚式を否定しているのではありません。葬儀・告別式に出席することによって、すべての人生には終わりがあることをまた心に留めることができ、自分の残された人生について考え直し、生活を改め、神様からいただいている命を、毎日を大切に生きるようになるからです。

 前後しますが、4節に「賢者の心は弔いの家に、愚者の心は快楽の家に」とあります。賢い人は必ず直面する死という終わりについて考え、大切な人を亡くして悼んでいる人のもとへ慰めに行きます。しかし愚かな人は死という現実を直視することができず、先延ばしにし続け、今を楽しもうとする人々と共に集まり、快楽を求めることだけに心と時間を用います。

 3節に「悩みは笑いにまさる。 顔が曇るにつれて心は安らぐ」とありますが、これは「人は悲しみを経験することによって人生の意味、生きる目的を考えるようになり、その意味と目的を知ることによって喜び、感謝することができて平安を得る」という言い方になります。6節に「愚者の笑いは鍋の下にはぜる柴の音」とありますが、コヘレトは「これまた空しい」と言います。先ほどのオヤジギャグのように、柴が炉の中で一瞬にして燃え尽きてしまうように、くだらないことで得る笑いは一瞬で消えさり、空しさだけが残るということです。

 5節に「賢者の叱責を聞くのは、愚者の賛美を聞くのにまさる」とあります。「賢者の叱責」とは、愛と忍耐のある建設的な批判、助言です。その愛の言葉に聞くならば、その人の人生は豊かな実りを得るということです。愚者の賛美とは、自分に溺れた自慢話だと思います。

 7節に「賢者さえも、虐げられれば狂い。賄賂をもらえば理性を失う」とありますが、賢い知恵の人でも虐げという辛いことを経験し続ければ、冷静さと判断力を失い、間違ったことをしてしまうということです。賄賂・巨額の金は賢い人の理性をも失わせます。リビングバイブルでは、「賄賂は人の判断力を麻痺させる」とあり、第一テモテ6章9節と10節には、「金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。金銭の欲は、すべての悪の根です」とあります。

 続く8節で「事の終りは始めにまさる。気位が高いよりも気が長いのがよい」とありますが、物事の結果をしっかり見極めるまでは、軽はずみな判断をしてはいけない、気を長く持ち、忍耐しつつ生きなさいという事です。9節にも「気短に怒るな。 怒りは愚者の胸に宿るもの」とあります。短気な人がその人生で成功をおさめたというサクセスストーリーを聞いたことがあるでしょうか。「短気は損気」と言われます。神様から恵みとして与えられている命と体、時間や富を私物化しているので短気になり、怒りが心を支配するのでしょうか。神様と隣人のために生きる時、わたしたちの命は神様と隣人にとって「益」となり、そうでない時、つまり自分のためだけに命を用いることは、神様と隣人の「損」になります。

 次に10節をご覧ください。「昔の方がよかったのはなぜだろうかと言うな。それは賢い問いではない」とあります。この言葉、わたしたちの多くがよく口にすることです。しかし、「昔の方が良かった」という人は、過去に生き続ける人の口癖で、今の現実から逃避して、今日の現実を直視しない逃げの言葉です。

 確かにわたしも、わたしが生きた日本の昭和50年時代、アメリカでは80・90年代、とても良かったなぁと思い出にふけったり、あの頃に戻りたいなぁと一瞬思う時もあります。皆さんが生きたバブルの時代とは、どういうバブリーな時代であったのでしょうか。円高で海外旅行や海外留学ができた時代、すべてキラキラ輝いていたでしょうか。しかし、どんなに過去が素晴らしい記憶で埋め尽くされ、どんなに輝いていても、わたしたちは今を生きなければならないのです。どんなに困難な状況にあっても、今日という日を神様から与えられた日、生かされている日と感謝し、どのように生きたら神様の御心に沿った生き方なのかを求めて、主に信頼して生きる事が重要だとコヘレトは言っているのではないでしょうか。

 11節と12節に「知恵は遺産に劣らず良いもの。日の光を見る者の役に立つ。知恵の陰に宿れば銀の陰に宿る、というが、知っておくがよい、知恵はその持ち主に命を与える」とあります。「知恵は、人が生きるために必要な財産以上の有益なものであり、光の中を歩み続けるために必ず役に立つ」という事でしょうか。生きるためには金銀は確かに必要ですが、財産を管理する知恵・能力がなければ、お金は泡のようにすぐに消えてしまいます。

 しかし神様から与えられた命、体、知恵、富、時間などを感謝して神様におささげし、用いていただく時、わたしたちの心は大いなる喜びに満たされ、恵みの中に生かされていることを体験できます。コロサイ2章3節に「知恵と知識の宝はすべて、キリストの内に隠れています」とあり、イエス様を信じて従う者に知恵と知識が与えられ、富をはじめ、神様からいただくすべての恵みを管理する知恵がイエス様から祝福されて与えられるのです。

 13節に「神の御業を見よ。 神が曲げたものを、誰が直しえようか」とあります。神様のなさることを変更することは人にはできません。それをやろうとするので痛い目に遭うのです。大切なのは、神様への信仰、信頼を持って、委ねて、主の御業の中で生き続けることです。

 最後になりましたが、14節に「順境には楽しめ、逆境にはこう考えよ。人が未来について無知であるようにと、神はこの両者を併せ造られた」とあります。新改訳聖書では、「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ」と訳されていて、とても分かりやすいと思います。

 人生、すべてが順風満帆・順境ではありません。辛い逆境の時もあります。そのどちらも神様が作られ、わたしたちに与えています。すべての主権は主なる神様にあるのです。ですから、順境の時は常に神様に感謝して、素直に喜んで、心から楽しめば良いのです。神様の愛を喜ぶことが神様の栄光を表すことです。

 苦しい逆境は、神様に立ち返るチャンスです。まず自分が神様を忘れて傲慢でなかったかと自己吟味し、悔い改めるべきことがあれば悔い改め、すぐに神様に立ち返り、神様の近くに身を寄せれば、「終わり良ければ、すべて良し」なのです。つまり、限られた命を、イエス・キリストにあって、死を恐れずに、いつも喜び、絶えず祈り、すべてに感謝しつつ、その日その日を誠実に、大切に生きることが、神様がわたしたちに求めておられる生き方です。