宣教「わたしについて来なさい」 大久保バプテスト教会副牧師石垣茂夫 2022/01/16
聖書:マルコによる福音書1章14節~20節(新約p61)
招詞:エレミヤ書1章4~5節(旧約p1172)
「はじめに」
お読みいただきましたように、主イエス・キリストはガリラヤで、
『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。』(1:15)と宣言し、伝道を始めました。
「時は満ちた」という言葉ですが、これは、「今が、その時だ」と言っておられるのです。
あるいは、「待つという期間は、もう終わったのだ」と言われたのです。
実際に、「神の国そのものであるわたし“イエス”が来たのだから、神の国は、もう始まったのだ。」と、そう宣言し、伝道を始められました。
その伝道活動の初めになさったことは、「わたしについて来なさい」と呼びかけて、弟子を集めることでした。このことから、主イエスは、ご自分が一人で伝道するのではなく、共に働く人たち、働き人を求めてその業を始められたという事が分かります。
神がわたしたち人間を求め、「一緒に働こう」と呼びかけて、伝道を始めました。
「一人で伝道するのではない」。これは今日、教会の働きをする時に、最も心すべき大切なことです。
お読みいただきました今朝の聖書箇所は、多くの方が、繰り返し読み、繰り返してお聞きになって来た箇所です。今朝は改めて、ご一緒に「わたしについて来なさい。一緒に働こう。」との主イエスの呼びかけを、皆様ご自身への言葉としてお聞きいただき、新しい年の歩みを踏み出してまいりたいと願っています。
「主の呼びかけ」
ガリラヤ湖のほとりを歩く主イエスの目は、二人の兄弟が漁をしている姿を捉えました。兄弟の名は、兄がシモン、弟がアンデレです。シモンとは主イエスの一番弟子となったペトロのことです。
1:16 イエスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。
1:17 イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。
1:18 二人はすぐに網を捨てて従った。
主イエスはこの時、二つのことを言われました。一つは「わたしについて来なさい」という事です。もう一つは、「人間をとる漁師にしよう」ということです。
「わたしについて来なさい」、「人間をとる漁師にしよう」この二つのことです。
二人は湖で仕事をしている最中に、こう呼びかけられたのですが、兄弟は、「すぐに網を捨てて従った」とあります。
主イエスの招きは、あまりにも“いきなり”と感じましたが、この招きに対する漁師たちの反応も、同じように素早いものでした。自分の仕事を途中で放棄し、何者か分からない人についったのです。常識ではありえないことです。聖書を一読しただけでは、そうとしか思えません。
「その仕事を捨てて」
主イエスは更に、この二人を従えて、もう一組の漁師、ヤコブとヨハネに声をかけました。
ヤコブとヨハネ、こちらの兄弟は既に漁を終え、網を繕つくろって明日の漁に備えていました。この二人にも同じようになさいました。
この、二組の漁師については、使われている言葉から、規模の違いが現れています。シモンとアンデレは、「湖で網を打っている」と書かれていますので、小さな投網とあみを使っています。まだ収穫量が少ないようで、漁を続けていました。
一方でヤコブとヨセフは、同じ時間帯に、既に漁を終え、網を繕つくろって明日の準備をしているのです。
二組に共通することは、どちらも仕事の最中に呼びかけらたという事です。
1:19 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、
1:20 すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。
「ゼベダイの子ヤコブとヨハネ」とありますように、こちらには敢えて、父ゼベダイの名があり、傍には複数の雇人がいたことも分かります。ペトロ・アンデレと比べると、規模の違いが分かります。
ある人は父のゼベダイを、「網元あみもとゼベダイ」と呼んでいました。網元あみもと(fishermen’s boss)。
最近のことですが「わたしをbossと呼べ」と言う野球の監督が目立っています。わたしを頼れと言いたいようです。ゼベダイは、きっと、頼りがいのある漁師の親方なのでしょう。ヤコブとヨハネは、彼らの父であるbossと雇人など、大きなものを捨てて主イエスに従ったのでした。
聖書の中で、こうした表現にであうと、わたしは、「これは極端きょくたんではないか」と疑い、背後に隠されていることを探ろうとします。たとえば、二組の兄弟には、「それぞれ、後を任せられる別の兄弟いたのではないのか」などと、合理的に理解したくなり、そうした誘惑に陥ります。
しかしそのように、合理的に解釈し、納得したとしても、このみ言葉によって何が生み出されてくるのでしょうか。
「俺についてこい」
1964年、57年前の前回の東京オリンピックでは、日本の女子バレーボールチームが金メダルを獲得しました。日本では有名な話ですが、大松おおまつ博文ひろぶみ監督かんとくが「俺についてこい」と言って、厳しく猛烈な練習を科した結果、金メダルを獲得しました。その時、流行語になった「俺についてこい」との言葉を思い出します。
監督は、「俺についてこい。金メダルを取らしてやる」と、そこまでは言っていないと思いますが、十分な、自身があったようです。
選手たちは、「俺についてこい」と言った鬼のような監督の言葉に従い、その厳しい指導について行きました。選手たちが猛練習に耐え、目標に到達できたのは、それ以前の、今までやって来たことの延長線の上に監督本人と、その指導が、見えていたということがありました。それだからついて行けたのだと思うのです。
この四人の漁師は、同じように「俺についてこい。人間をとる漁師にしよう」と言われたのですが、初めて出会った人に突然そう言われたのです。疑いを持たなかったのでしょうか。不安ではなかったのでしょうか。それでもなぜ従って行けたのでしょうか。
「人間をとる漁師」
主イエスは「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。「人間をとる漁師」とは、少し不思議な言葉です。ある方はこの言葉を「これからは、魚ではなく、人間に目を向ける漁師になるのだ」と補っていました。
二組の兄弟は、十分に経験を積んできた一人前の漁師です。鋭い目で観察し「勘かん」を養ってきました。どのあたりに網を下ろしたらよいかと探りながら、この日も一日、漁をして過ごして来たのです。そうした二組の漁師は、主イエスに、「わたしについて来なさい」と呼びかけられ、「これからは人間に目を向ける漁師になるのだ」と言われたのです。
「人間をとる」とはどういうことなのでしょうか。直接的な意味は「伝道者になる」という事です。四人はこのことを分かって従ったのでしょうか。
「神の必然」
呼びかけられた初めの四人は漁師たちでした。魚を捕る漁師は、ユダヤ教の社会においては罪人の仲間に数えられていました。わたしたちのように、古くから、主に魚を食べることが多い民族にとっては、意外に思うことですが、魚を取ることは、“生き物を捕つかまえ”、食べるために“さばく”という行為をしますので、当然、生き物の血に触れます。それが人を汚けがす行為になります。そのような職業に就く人は、社会的には、はじき出された人であったのです。
この後、徴税人レビが弟子として招かれます。徴税人とは言うまでもなく、占領軍ローマの手先となっていたことで嫌われていました。やがて弟子となった十二人はすべて、人々に嫌われ、疑わしい目でみられ、社会からはみ出した人たちでした。敢えて、そうした人たちに声をかけて集め、弟子としていくこと、これは人間の目には異様に見えることです。しかしこれは、あくまでも神が必要とされたことでした。
わたしは他の宗教についての十分な知識はないのですが、ほぼすべての宗教は、人間が神を探し求めていきます。ところが聖書の神は、一貫して神が人を探し求めておられるのです。神が決心され、人を探し求めていくのです。これを「神の必然」と呼んでいます。
何よりも、まず、神が決心され、人を探し求めていくのです。それ故に、人に求められるのは「従う」のか、「拒む」のかということになります。
このことから教えられることがあります。わたしたちの信仰は、分かったり、納得して従うのではないのです。あくまでも神の招きへの応えであって、少し乱暴ですが、分からないまま従うという面があります。
すぐには分かりません。しかし、一緒に生活を続ける中で、少しずつ深められていくのです。最初に求められるのは、ただ、従い、後うしろについていくことです。それが信仰を持つことの始まりなのです。
わたしたちは、自分を振り返ってみて、信仰に至る十分な動機や確信があってこの道を得たのでしょうか。あるいはわたしたちの決断が先行して信仰を得ていたのでしょうか。
もしそのように、わたしたちの決心に重きがあるのなら、とっくに教会を離れ、信仰を捨てることも出来たことでしょう。
「わたしについて来なさい」
主イエスが、「わたしについて来なさい」と言われたのは、「わたしが今から歩いて行くところに、後うしろからついてきてほしい。わたしが生きていく生活を一緒にしてほしいと言われたのです。
主イエスは行きずりに、初めて出会った見ず知らずの漁師たちに声をかけたように思いますが、主イエスは確かで鋭い、漁師のような目を持って彼らを選んで行かれたのです。
漁師たちが網を捨てたのは、ただ捨てたのではないのです。呼びかけられた時に、思わず道具を捨ててしまうほどの、大きな感動を覚えたのです。喜んで、持っていた網を捨て、従ったのです。わたしにはそのように思えて来ました。
わたしたちが気付かないだけで、わたしたちはある時に、主イエスから「わたしについて来なさい」と呼びかけられていたのです。
「エレミヤの召命から」
招詞としてお聞きいただいたエレミヤ書には、
「わたしはあなたを母の胎内に造る前から/あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に/わたしはあなたを聖別し/諸国民の預言者として立てた。」と書かれていました。
「エレミヤを預言者として招くこと」、これは神であるわたしが必要として立てた計画だと言っています。エレミヤの思いが入る余地はないと言っているのです。
エレミヤは、神の呼びかけを聞いて、何度も断ろうとします。「わたしは言葉の人ではない」。
「預言者」、そのような大役に就く自信はないと言って断ります。
「わたしは若者に過ぎない」と、「経験不足だ」と言って断ろうとします。
しかし神は「あなたは若者に過ぎないと言ってはならない。わたしがあなたをどこに遣わそうと、わたしが命じることをすべて語れ。恐れるな。わたしがあなたと共にいて必ず救い出す」と約束しました。そのようにして、エレミヤは神と対話することで、次第に呼びかけを受け入れるようになっていきました。
皆様は、自分がなぜ、教会に繋がるようになったのか、或いは信仰生活に入ったのか、お考えになることがあると思います。しかしどうでしょうか。信仰を決断するときに、エレミヤのように、そのために悩み、考えるという時があったことでしょう。それは神の忍耐の時であり、神は待っていてくださったのです。
わたしたち一人一人が信仰の問題で経験してきたことは、ことごとく突然のことです。どなたかが、良く説明してくれたから信仰を得たのでしょうか。或いは納得できたから、信仰を得たのでしょうか。そうとは言えないことがわたしたちには起きていたと、私は思うのです。
主イエスは、わたしたち一人一人を探し求めて、すぐそばを“通りかかり”ってくださいました。
わたしたちを見て、呼びかけてくださいました。
わたしたちは、その主イエスにお応えし、従って来た者です。
主イエスのお言葉を聞き、心動かされ、すべてを捨て、従ってきたのです。
その主イエスは、今も、わたしたちと共におられます。
このことに確信を持ち、喜びを以て共にお仕えしていきましょう。
【祈り】