「最も価値ある勝利」 イースター礼拝 宣教 2024年3月31日
マタイによる福音書 28章1〜15節 牧師 河野信一郎
おはようございます。イースター、おめでとうございます。今年の復活祭を皆さんとお祝いすることができて大変嬉しいです。このような素晴らしい機会を与えくださる神様に感謝いたします。大久保教会の礼拝に初めて出席くださっている皆様、また久しぶりに出席くださっている皆様、大久保教会へようこそ!心から歓迎いたします。祝福をお祈りいたします。
さて、今日で2023年度が終わり、明日から新年度が始まりますが、3月と4月は寂しい別れと楽しみな出会いがあるビタースイートな時期です。4月から始まる新年度、神様はどのような出会いを備えてくださっているでしょうか。楽しみですね。しかし、そういう中で、今日は副牧師として13年間仕えてくださったI牧師の退任の日です。I先生とM姉と過ごした月日を振り返る中で、たくさんの思い出が思い返されます。長いようで短くも感じる13年間でした。今後は、神様に礼拝をおささげし、お仕えする場所は異なりますが、Iご夫妻のお顔を拝見し、また共に礼拝をおささげできる機会が時折あることを神様に期待いたします。礼拝の後に、わたしたちの感謝の気持ちを表したいと思います。
さて、今年度は閏年もあり、日曜日が53回ありました。朝と夕べの礼拝、合わせて79回も礼拝をおささげすることができました。イースターは、昨年の4月9日と今日で一年間に2回もお祝いできています。とても幸いなことだと感動しています。今日は、この礼拝の後にI副牧師ご夫妻の感謝会とイースターの祝会が一階ホールであります。子どもたちが楽しみにしているエッグハントも祝会の後にありますので、賛美と礼拝をおささげした後も、ご一緒に救い主イエス・キリストのご復活をお祝いいたしましょう。ご出席ください。
さて、キリスト教会は初めてという方にとって、「イースター」という日の意味が分かりにくいと思いますが、イースターはキリスト・イエスがキリスト教会にとって非常に重要な日です。このイースターがなければ、キリスト教会は存在し得ませんし、わたしたちも、今朝、このように一緒に礼拝をおささげすることもなかったはずです。この礼拝堂にいるすべての人は出会うことはなかったはずです。ですから、イースターは奇跡の日であり、幸いな日なのです。「クリスマスとイースター、どちらが重要ですか?」という素朴な質問を受ける時がありますが、そのような時にわたしが用いる例が一つあります。
紙幣のお話です。今年の7月から新しいデザインの紙幣が順次発行されるそうですが、現在の一万円札の表紙のデザインは福沢諭吉の肖像画で、裏面の図柄は、世界遺産になっている京都府にある平等院鳳凰堂に据えられている鳳凰像となっています。わたしの例えというのはこれです。一万円札の表面に福沢諭吉さんの肖像画がしっかり印刷されていても、もし裏面に何も印刷されてなければ、それは一万円札として価値があるでしょうか。それが造幣局のミスプリントの一枚であれば希少価値はあるかもしれませんが、そのようなことは考えられません。しかし、ここでお伝えしたいのは、もしお札の裏面が白紙であれば、紙幣としての価値はないということです。同様に、イエス・キリストの誕生をお祝いするクリスマスだけでは意味がないのです。イエス・キリストの甦りをお祝いするイースターがあって、つまり、クリスマスとイースターが対となって初めて福音、良き知らせとなり、わたしたち一人ひとりが神様に愛されている存在であることを知ること、その愛を体験できるのです。
また、イエス・キリストの福音、神様がわたしたちに受け取りなさいと差し出してくださる愛と救いは、イエス様の十字架の死と三日後の復活が表裏一体となっています。わたしの背後の壁に大きな十字架が掲げられていますが、この十字架はイエス・キリストの贖いの死を表しています。「贖い」とは、わたしたちが負うべき罪の代償を他の人が肩代わりして支払ってくださるということです。しかし、わたしたちの救いはイエス様の十字架だけでは完全ではないのです。確かにわたしたちの罪はイエス様によって十字架上ですべて支払われましたが、もう一つの大問題、「死」という問題からわたしたちを救い出し、死の恐れから解放し、永遠の命を得させるためには、イエス様のご復活がどうしても必要であったのです。ですので、神様がイエス様を死から甦らせてくださり、このイエス様の十字架の贖いの死と復活を信じる人に、罪の赦しと新しい命を与えてくださり、喜びと平安と希望を与えてくださる、それがイエス・キリストの福音であり、神様の愛であり、その深い愛を喜び、感謝し、賛美と礼拝をおささげするのが、このイースター(復活祭)なのです。
前置きが長くなりましたが、今朝は「最も価値ある勝利」と題してイエス様の復活された日の出来事をお話しさせていただこうと思いますが、神の子イエス様はすべての人に受け入れられたわけではありませんでした。救い主としてユダヤ人たちの只中に生まれられ、その中で神様の愛を語り続け、数々の癒しや奇跡の業をなされたのですが、その言葉と業があまりにも力強く、核心を衝き、民衆の心を強く捉えたので、影響力のバランスシフトを恐れたユダヤ社会で巨大な力を持った人々、祭司長やファリサイ派の人々がイエス様を憎み、亡き者にしようと企んだわけです。長い話を端的に話しますと、その陰謀がようやく実を結び、ローマ帝国の力を借りてイエス様を十字架刑で殺すことができたわけです。彼らにとっては大勝利、この上ない喜びであったのです。
しかし、彼らには不安なことがまだありました。それがマタイによる福音書27章62節から66節に詳しく記されていますので、そこを読みたいと思います。「62明くる日、すなわち、準備の日の翌日、祭司長たちとファリサイ派の人々は、ピラトのところに集まって、63こう言った。「閣下、人を惑わすあの者がまだ生きていたとき、『自分は三日後に復活する』と言っていたのを、わたしたちは思い出しました。64ですから、三日目まで墓を見張るように命令してください。そうでないと、弟子たちが来て死体を盗み出し、『イエスは死者の中から復活した』などと民衆に言いふらすかもしれません。そうなると、人々は前よりもひどく惑わされることになります。」65ピラトは言った。「あなたたちには、番兵がいるはずだ。行って、しっかりと見張らせるがよい。」66そこで、彼らは行って墓の石に封印をし、番兵をおいた。」とあります。執念深いですね。それほどまでに、彼らはイエス様を恐れたのです。
しかし、彼らの執念よりももっと大きな力があります。それはわたしたちを愛してくださる神様の愛の力、憐れみの力です。イエス様はわたしたちの罪の代価を支払うために十字架上で命を捨ててくださいました。そのイエス様を甦らせ、暗い闇の象徴である墓の中から出してくださったのが神様です。なぜ神様はイエス様を死人の中から甦らせたのでしょうか。それは先ほども申しましたように、罪と恐れと闇の中で苦しみもがきながら生きているわたしたちを闇の中から光りの中へ移し、わたしたちに新しい命を与え、今までの苦しみの多い人生から解放して新しい人生を与えるため、生かされている喜びと平安で満たすためです。イエス様が復活された日の朝のことが四つの福音書に記録されていますが、今朝はマタイによる福音書の28章をご一緒に読みたいと思います。1節から10節を読みます。
「1さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。2すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。3その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。4番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。5天使は婦人たちに言った。『恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。7それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。」確かに、あなたがたに伝えました。』8婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9すると、イエスが行く手に立っていて、『おはよう』と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。10イエスは言われた。『恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。』」とあります。ここに「恐れ」という言葉が4回用いられています。
大切なイエス様を失った深い悲しみと今後について大きな不安と恐れを持っていた女性の弟子たちに対して、神様から遣わされた天使とイエス様は共に開口一番、「恐れることはない」と言います。また、復活されたイエス様は、彼女たちに「おはよう」と挨拶します。他の聖書訳では「平安あれ」となっています。この「おはよう」というギリシャ語は、「チャイレテ」という言葉が使われています。これは「喜びなさい」という意味なのです。
悲しみ、苦しみ、路頭を彷徨っている人たちに、なぜ「恐れる必要はない、喜びなさい」と天使もイエス様は宣言するのでしょうか。それは、イエス様が甦られ、神様の愛の力が罪と死の力に勝利したからです。復活したイエス様がわたしたちと共に歩み、共に生きてくださるから、もう独りで悩み苦しみ、重荷を負い、絶望感に浸る必要がなくなったからです。神様の愛がイエス様の十字架と復活によって完成し、その愛を受け取りなさいと招かれているからです。イエス様の十字架の死の事実と神様の愛によってイエス様が甦られた事実とが合わさって、罪と死という最大の敵に勝利したから、もう恐れる必要はない、イエス様を救い主と信じて、イエス様のご復活を疑わずに、そのまま喜びなさいと招かれているのです。
しかし、神様の愛からわたしたちを引き離す力があります。その代表格が「お金」です。お金は悪いものではありませんが、人の心を惑わす道具としてずっと用いられています。その具体例が28章の11節から15節にありますので読みたいと思います。
「11婦人たちが行き着かないうちに、数人の番兵は都に帰り、この出来事をすべて祭司長たちに報告した。12そこで、祭司長たちは長老たちと集まって相談し、兵士たちに多額の金を与えて、13言った。「『弟子たちが夜中にやって来て、我々の寝ている間に死体を盗んで行った』と言いなさい。14もしこのことが総督の耳に入っても、うまく総督を説得して、あなたがたには心配をかけないようにしよう。」15兵士たちは金を受け取って、教えられたとおりにした。この話は、今日に至るまでユダヤ人の間に広まっている。」とあります。番人たちはお金で買収されたのです。お金で心が惑わされ、その誘惑に負けてしまいました。
わたしたちも、お金の誘惑に遭います。自分の幸せのため、育児や子どもの教育や老後のためにお金はいくらあっても足りないと思い、お金を稼いだり、蓄えるために知恵を尽くします。いくら蓄えがあっても不安とさらなるお金の欲求だけです。しかし、そのようなわたしたちにイエス様は、「思い悩むな。なぜなら、あなたがたの神はあなたがたの必要をすべてご存じである。この地上での命の豊かさを求めるよりも、神の国での命の豊かさを求めなさい」と言われ、また「恐れるな。あなたがたの父なる神は喜んで神の国をくださる」と言って励まし、神様を信じ、イエス様を救い主と信じなさいと招いてくださいます。
わたしたちの人生は、日々戦いの連続です。確かに自分の努力で幸せを感じることもできます。しかし、その幸せはほんの一瞬で過ぎ去ります。勝利はずっと続きません。しかし、お金や自分の努力で得られない幸せ、最も価値ある勝利を神様はイエス様の復活によって用意してくださり、その愛と救いを受け取りなさいと今朝も招いてくださっています。この神様の愛を受け取る時、わたしたちの心はお金では買えない平安、幸いを得ることが出来ます。もしそのような平安、幸いが自分にはないと感じられるならば、どうぞ神様に求めてください。神様は、その願いに祝福をもって応えて、あなたの心に愛を注いでくださいます。イースター、おめでとうございます。