「主イエスの死に対する私のリアクション」 受苦日祈祷会 奨励 2019年4月19日
ルカによる福音書23章44〜56節 牧師 河野信一郎
今夜、主イエス様の十字架の死を覚えて、このように「受苦日祈祷会」を皆さんとご一緒に守れますことを嬉しく思います。また、そのように導いてくださった神様に感謝いたします。
今週は、15日の月曜日にフランスにあるカトリックのノートルダム大聖堂の大規模火災があり、前日から始まった今年の受難週がさらにクローズアップされました。燃え落ちる塔を見ながら、群衆が涙を流し、賛美歌を歌ったということでした。火災が鎮火した後の大聖堂の写真が全世界に公開されました。火災を免れて光り輝く十字架の実物を実際に見た人、写真で見た人、それぞれは神様の憐れみを感じ、そして主イエス様の十字架と復活に救いと大きな希望があることをもう一度感じ取ることができたのではないかと思います。「ノートルダム」という名前は、フランス語で「私たちの貴婦人」という意味だそうで、聖母マリアを示すということを、お恥ずかしながら、今回初めて知りましたが、私たちにとって大切なのは、イエス様を産んだマリアさんではなく、救い主イエス・キリストによる十字架の贖いと復活であることを覚えたいと思います。そして、そのイエス様の死と甦りに対して、私たち一人ひとりがどのように応答するのか、リアクションするのかが重要だと週の初めに感じ、今夜の祈祷会の奨励の主題を「主イエスの死に対するわたしのリアクション」としました。
今回のノートルダム大聖堂の火災後に知って驚いたことは、大勢のフランス国民や外国の人々、群衆が大聖堂再建のために群がるように寄付するようになり、フランスや欧米の大企業が次々と大口の寄付をし始め、その金額が数日間で880億円を超えるものになったというニュースを聞いたことです。フランス人をはじめ多くの人たちのとった行動が寄付だけとは言いませんが、このような寄付は、心の拠り所としていた寺院・大聖堂が火災で崩れ落ちてゆく様を目撃した人々のリアクションだと思います。
では、イエス様の十字架の死を目撃した人々のリアクションはどのようなものであったのでしょうか。そして、2019年の受難週を過ごし、イエス様の十字架の死を悼むと同時に感謝する私たち一人ひとりのリアクションはどのようなものであるのでしょうか。ご一緒にルカによる福音書に記されているイエス様が十字架につけられる箇所からイエス様が息を引き取られる箇所、そして墓に葬られる主イエスのご受難の箇所を読みました。薄暗い中、ここを目と耳と心で読んで、皆さんはどのような感情を抱かれるでしょうか。
今週の水曜祈祷会では、26節から46節までに記されているイエス様の十字架上で発せられた3つの言葉に注目して、そこから主の語りかけを聴いてゆきましたが、午後3時ごろ、全地が暗くなり、太陽が光を失っていた時、イエス様は大声で叫ばれました。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」、そう言ってイエス様は息を引き取られました。この叫びは、6時間に渡る十字架上での苦痛のあまり気がおかしくなった叫びではなく、父なる神様から委託されたこの地上での任務・目的・使命をすべて完璧に全うしましたという達成感、満足感から来る最後の叫びであったと聴きました。「お父さん、わたしはあなたから託された使命をすべて成し遂げました。どうぞわたしの霊を引き上げてください。あなたの御手に今わたしの霊をおゆだねします」という言葉であったと信じます。主イエス様の最後は、苦痛から来る苦しみではなく、父なる神様の御心を全うしたという安心感と感謝が心の中にあったのです。悔いを残すことは何一つなく、平安のままに息を引き取られたのです。
イエス様の逮捕から不当な裁判、そして十字架刑の最初から最後までを見ていた人々はこのイエス様の死に直面し、それぞれが心のリアクションをしました。
47節に「百人隊長はこの出来事を見て、『本当に、この人は正しい人だった』と言って、神を賛美した」とルカは書き記しています。百人隊長は、ローマの兵卒を統率する隊長、イエス様を十字架刑に処する指揮をとった人です。自分の部下が十字架上のイエス様に酸いぶどう酒を突きつけながら、「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ」と侮辱する行為をそのままにさせていた人です。しかし、十字架に付けられたイエス様を近くで6時間も見ていて、イエス様の口から出る言葉を聞いていたこの百人隊長は、イエス様が十字架上で息を引き取られた時、神様を信じない者から信じるものとへと変えられてゆき、神様を賛美する人に変えられてゆきました。イエス様を信じない人の心を変えることは、私たちにはできませんが、イエス様の十字架を私たちが指し示す時、神様がその人の心をイエス様に近づけ、信じる心へと変えてくださるのです。私たちの家族のために祈りましょう。
「見物に集まっていた群衆も皆、これらの出来事を見て、胸を打ちながら帰って行った」と48節にあります。胸を打つという行為は、自分の間違いを認め、自分の罪深さを思う行為です。面白半分に見物に来た野次馬たち群衆も、十字架に付けられたイエス様を見て、その声と言葉、叫びを聞いて、自分たちの思いの至らなかったこと、イエス様を嘲笑った間違いに気づき、悔い改め始めます。新宿、東京、首都圏で生活している人々が自分の弱さ、間違いを認め、悔い改めることが始まるように、そのために私たちの教会が用いられるように祈りましょう。
「イエスを知っていたすべての人たちと、ガリラヤから従って来た婦人たちとは遠くに立って、これらのことを見ていた」と49節にあります。彼らは臆病者で、自分たちの命を守ろうとして遠くに立っていたわけではありません。死なれたイエス様のために自分たちに何ができるだろうかと心の中で一生懸命に知恵を働かせ、神様の御心を求めていたのです。
アリマタヤのヨセフという議員が50節から登場します。彼はユダヤ・サンへドリン議会の議員で、善良な人、イエス様を十字架にかける運動、決議や行動に同意しなかった人で、神の国を待ち望んでいる人でした。イエス様の十字架の死を目撃した彼は、心が変えられ、勇気ある人に変えられ、総督ピラトのところへ行って、イエス様の遺体を引き取りたいと願い出しました。遺体を引き取れば、イエス様の仲間ではないかと疑われ、何をされるかわかりません。しかし、彼は十字架に付けられたイエス様を見て、このイエス様を信じる信仰が与えられ、この方のために勇気を出してベストを尽くそうと決心しました。そしてイエス様の遺体を十字架からおろして亜麻布で包み、まだ誰も葬られたことのない、岩に掘った墓の中にイエス様を納めます。
イエス・キリストは、私たちにとってどのようなお方でしょうか。あなたにとって、わたしにとって。私たち一人ひとりの罪の代価を支払うために私たちに代わって十字架に架かって死んでくださった神の御子イエス様、救いの恵みに対する私たち一人ひとりの心のリアクション、周りの人のリアクションは参考にはなりません。主はわたしの、あなたの心の応答を求めておられます。
54節から56節に、「その日は準備の日であり、安息日が始まろうとしていた。イエスと一緒にガリラヤから来た婦人たちは、ヨセフの後について行き、墓と、イエスの遺体が納められている有様とを見届け、家に帰って、香料と香油を準備した」とあります。 今夜、この場所でお祈りをした後、それぞれの家に帰って、主に示されたことを、来たる主日の準備をなしてゆきましょう。