「心を合わせ、声をそろえて」 二月第一主日礼拝 宣教 2023年2月5日
ローマの信徒への手紙 15章1〜6節 牧師 河野信一郎
おはようございます。2月の第一主日を迎えました。今朝も神様の招きによって礼拝者とされ、ご一緒に礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。去る週、皆さんは、どのような日々をお過ごしになられたでしょうか。様々なことがあったとお察しします。
教会では屋根と壁の改修工事が水曜日の朝から始まり、順調です。お祈りをありがとうございます。工事前日の火曜日には、教会の建物の周辺を整理整頓しました。草むしりから、様々な物の移動、不要なものもだいぶ処分することができ、最初の二日で足場が組まれ、金曜日には屋根の資材が運び込まれました。今朝は、この間に感じたこと、考えさせられたこと、二つあるうちの一つ分かち合わせていただき、もう一つは次週シェアいたします。
今朝、皆さんに分かち合いたいのは、足場が組まれた最初の日の夕方、作業員の方々がお帰りになった後のことです。1日の工事の成果を見ようと外に出た時に目にした光景に愕然としました。教会前の花壇にある植物の大部分が無惨にも踏みつけられ、花壇はめちゃくちゃ、作業中に倒されたのでしょう、ツバキの鉢なども無惨な状態で置かれていました。工事のための足場を組む必要な作業ですから、仕方ないことだと頭では分かっているのですが、花壇の世話を毎日している者にとっては、本当に居た堪れない気持ちになりました。
しかし、わたしはすぐにこう思いました。「わたしたちも神様が造られた物に配慮することなく、それらを当たり前のように踏みつけ、搾取し、美しいものをたくさん破壊して神様を悲しませている」と。わたしたちは、意識的か、無意識のうちで、神様が創造され、大切にされているものを自分勝手に使用し、浪費していると思うのです。海や大地という大自然界の中に存在するものだけではありません。地球上にあるものすべて、特に人間関係の中でも同様なことをわたしたちはしていると思うのです。神様に造られ、生かされ、愛されている者同士が、神様の思いを完全に無視して、人の心に土足で入り込んで、いろいろな大切なものを踏みつけている。日々、互いを傷つけ合い、大切なものを貪り合い、苦しめ合っている。どうでしょうか。これが故意、意図的な行為であれば、本当に許し難い事です。
また、長年にわたる自然の恵みの搾取、自然破壊による地球温暖化の現象、歯車が狂ったかのように猛威を振るう自然災害だけではありません。昨年の2月24日からずっと続くRによるU侵攻、M国軍によるクーデター後の国民への弾圧、女性に対するIの宗教的差別と弾圧、世界の至る所で、神様の花壇の中に咲いている尊い生命やこれから咲こうとしている蕾・生命が無惨にも日々踏みつけられて、痛み、苦しんでいる。人権や尊厳が奪われ、世界が崩壊へと進んでいる。そのような世界の中で、理不尽なこととして、最も貧しく、小さく、弱くされている人たちから犠牲になってゆく厳しい状況です。
そういう中で、わたしたちに必要な事、実行に移すべき事はいったい何でしょうか。それは神様を畏れて、自分たちの傲慢さを心から悔い改め、神様に立ち返るしか方法はないと思います。そして、わたしたちに悔い改めて神様に立ち返る方法を教え、明確に指し示してくださるのが、神の子であり、救い主としてこの世に遣わされたイエス・キリストです。世界中には数多くの宗教がありますが、その中で唯一、私たちの罪を贖うためにその命を捨ててくださったイエス・キリストを救い主と信じるのは、キリスト教だけです。
この救い主・イエス様だけが、わたしたちに神様を第一にし、日々主を畏れて生きること、恵みの源である神様に感謝して生きること、その神様を心と思いと精神と力を尽くして賛美し、礼拝することの大切さを教えてくださる唯一のお方です。神様を畏れ、神様に感謝する。畏れ、感謝、畏れ、感謝、畏れ、感謝。素晴らしい命を与えて生かしたもう神様を畏れ、その愛と憐れみに感謝して生きる生き方を教えてくださる方が、イエス様なのです。
さて、本日まで「協力伝道週間」を過ごしてきましたが、今日は1)全国の諸教会が祈りで結ばれるように、2)諸教会の福音宣教の働きが祝されるように、3)牧師や教役者の働きと生活が守られるように、4)牧師が不在な教会が守られるように、5)また連盟事務所の働きと職員の方々を覚えて祈る日です。先週のメッセージでは、わたしの目線から見た諸教会の現状をお話しさせていただきましたが、もう少しお話しさせていただきたいことがあります。
1月の中旬でしたが、教会のみかんの木の剪定を行いました。とてもきれいになりはしましたが、キジバトのつがいが頑張ったけれども完成できなかった巣が撤去されてしまいました。わたしが庭師の方に巣をそのままにしておいてと事前に言わなかったので、跡形もなくなってしまいました。そうしたら、数日後に、キジバトの一羽が帰ってきてしまったのです。そして自分たちの巣がなくなっている事に非常に困惑しているようで、その姿を見たわたしは心を痛めました。申し訳ない気持ちになって胸が張り裂けそうになり、心の中で何度も「ごめんね」と叫びました。それ以来、キジバトの姿を見なくなりました。
日本の高度経済成長期(1955〜1973)のキリスト教会の多くは、付属幼稚園を運営し、日曜日には教会学校を開いて地域の子どもたちを教会に招きました。その後の少子化の時代の中で幼稚園を閉園する教会も増え、今も幼稚園運営が大変な教会がありますが、幼い頃に教会幼稚園、日曜学校に通っていたという人はとても多いのです。しかし、そのような人たちが人生に迷う中で教会を思い出し、教会に行ってみたけれども、教会がなかったとしたら、呆然と立ち尽くし、心をどこにも持っていきようのない虚しさを覚えるのではないでしょうか。
静岡県H郡の山間に、1947年に設立され、今年で76年の歴史のあるKバプテスト教会があります。この教会はずっと幼稚園を運営してきましたが、最後の園児2名が卒園する今年の3月で閉園になります。スタッフは牧師家族。牧師夫妻は80代後半。教会員は5名。建物も老朽化しています。小さな町に子どもがいないのですから、閉園も仕方がありません。しかし、幼稚園でのキリスト教教育を通して子どもたちとその家族にイエス様を伝えることがこの教会の使命、存在意義であったのです。
日本バプテスト連盟の宣教部がこれまでずっと心配してきた事は、幼稚園の閉園と同時に教会も存続できなくなってしまうのではないだろうかということです。教会と幼稚園がなくなってしまったら、これまでの卒園児たちの中で教会に行ってみたい、あのK教会に行ってみようと思ってくる人は大久保教会のキジバトのようになるのではないでしょうか。
さて、「協力伝道週間の祈り」の課題の中に、「無牧師の教会を覚えて」ということがあります。昨年12月までは、牧師がいないバプテスト教会は全国に41ありましたが、今年1月に入って急に42に増えました。1月1日の新年礼拝の時には、いつも通り元気にメッセージをされていた70歳の牧師が、二日後に突然天に召されたのです。この方は独身でありましたから、倒れた時もお一人で、発見されたのは数日後です。この現実、悲しくないでしょうか。教会員の方々も牧師を突然失ったことを理解するのに数日要したそうです。幸いにもこの教会には引退された牧師がおられますが、この方は90歳近い年齢です。
現在、連盟では牧師が不在な教会が42あります。その数は、これからもっと増えることでしょう。月に一回わたしが派遣されているN教会も新しい牧師を招こうとしていますが、その前に教会全体が一つの思いにされ、整えられ、各自が招聘する責任を負う決意を持たなければなりません。何もかも牧師におんぶに抱っこという考えでは、牧師が真っ先に潰れてしまいます。また、そのような考えを持つ教会の中から、新しい献身者が起こされてゆくでしょうか。誰が自ら進んで、苦労する道を選ぶでしょうか。神様に献身するのだから、我慢しても当たり前と言えるでしょうか。献身者が起こされない理由は教会にあるのです。
最近、わたしは「協力伝道」の難しさを痛感し、頭を抱える事がよくあります。「協力」という言葉の意味は、「ある目的のために心を合わせて努力すること」という事ですが、残念ながら、連盟の中にも、同じ目的を持てない、持つつもりもない、開き直って「持たなければいけないのですか」と言う教会が少なからずあります。イエス様を地域に伝えようという思いがないわけでは決してありません。ただ、教会の現状を維持するだけで本当に精一杯な教会が大半なのです。これが日本のキリスト教会の現状なのです。
そのような教会とどのように歩んでゆくべきでしょうか。こちらから協力の押し売りもできませんし、支援を受けて当たり前と思わせることも、甘えさせるのもよろしくありません。しかし、1県に一つしかない教会などは孤立しやすい。やはり誰かが歩み寄って行って、その肩に手を回して支えてあげなければならない程に弱くさせられている教会が地方にはたくさんあるのです。自給自足ができる教会のほうが少ないのです。ですから、自給自足ができる教会たちの祈りと献金が、小さくされている教会にいま本当に必要なのです。
ローマの信徒への手紙の15章1節に、「わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」とあります。使徒パウロの言う「強い者」とは、「弱く小さくされている者の弱さを担う者であり、自分の満足を求めない者」です。自分を愛するように隣人を愛し、弱くされている人たちのことに心をいつも配っている寛容な人です。いつの時代も寛容な人が必要です。今の厳しい時代はなおさら必要です。
2節に「おのおの善を行って、隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです」とありますが、先ほどの「隣人を自分のように愛し、私たちが互いに愛し合うこと」をリフレイズしたものです。使徒パウロが言う「強い者」とは「日々善いことを行って、隣人を喜ばせ、互いの向上に努める者」と言うことができます。他者のために生きる「僕」が「強い者」なのです。
そういう中で、「善いこととは何か」、「隣人を喜ばせるために何をすべきか」、「『向上』とは何か」という問いが浮かんで来ますが、3節に「キリストは」とあります。つまり、わたしたちが集中すべきは主イエス様であるということです。各自がイエス様だけを見て、主イエス様の言葉に集中して、祈り求めながら聞くのです。そうしたら、イエス様がそれぞれになすべき事柄を教えてくださるのです。すべての答えは、イエス様にあるのです。
5節では「キリスト・イエスに倣いなさい」とあります。どのようにイエス様に倣うのか。一つは、3節の「キリストもご自身の満足はお求めになりませんでした」という言葉に答えがあります。つまり、イエス様はご自分のために生きられなかったと言うことです。では、誰のために生きられたのか。パウロは、3節後半で、「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と言う詩編69編10節を引用します。「あなた」と言うのは神様で、「わたし」とはイエス様のことです。神様をそしる者たちのそしりが、イエス様に降りかかった、これはつまりイエス様の十字架の受難を指しています。イエス様は、第一に父なる神様のために生きられました。わたしたちに対する神様の愛と救いの約束を成就させるためでした。
イエス様は、わたしたち罪人のため、わたしたちを罪から救い出すために生きて、そして死んでくださいました。イエス様は、命をかけて神様を愛し、わたしたちを愛して、ご自分の命を分かち合ってくださいました。この愛によって救われ、神様に再びつなげられたのです。主イエス様がわたしたちとつながってくださったように、わたしたちも隣人を愛してつながること、強い者と弱い者が神様の愛によってつながることが神様の御旨なのです。
大切なのは、諦めないことです。神様とイエス様がわたしたちを諦めないように、わたしたちも諦めないで共に生きるということです。諦めないために神様に憐れみと助けを祈り求めるのです。祈り求めたことに神様は必ず答えてくださり、わたしたちを助けてくださるのがご聖霊です。私たちは一人では生きてゆけません。共に生きる者が必要です。ですから、神様がイエス様をわたしたちのもとへ遣わしてくださり、主がわたしたちといつも共に歩んでくださるのです。
4節に「わたしたちは聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」とあります。わたしたちに知恵と忍耐と慰めと希望を与えてくださるのは神様であり、聖書の御言葉です。聖書を日々読まずして愛と希望に満たされることはありません。私たちの人生、教会の歩みは、山あり谷あり、嬉しいこともあれば、心が痛むこと、悩み苦しむことがあります。今後も色々とあるでしょう。避けては通れない道もあるでしょう。
しかし、聖書はイエスを信じる信仰によって希望とその希望を持ち続ける力が与えられると言っています。その根拠は何か。5節に「忍耐と慰めの源である神が」とあります。悩みや怒りや悲しみに打ちひしがれ、恐れや不安で満たされているわたしたちの心に忍耐と慰めを与え、希望を与えてくださる神様が共におられるからです。この慈しみ深き神様に、わたしたちの心、諸教会の心を合わせ、声をそろえて主に賛美と礼拝をささげ、主と隣人に仕えてゆくことを大きな喜びとさせていただき、共に生きる目的をもって歩んでまいりましょう。