わたしの命を受けよと主イエスは」 三月第一主日礼拝 宣教 2023年3月5日
マルコによる福音書14章22〜26節 牧師 河野信一郎
おはようございます。3月最初の主の日の朝を迎えました。今朝も皆さんとご一緒に賛美と祈り、わたしたちの心を神様におささげできて、本当に感謝です。その後いかがお過ごしでしょうか。先週の「春一番」は、すごかったですね。強風で鉢や看板が何度もなぎ倒されて大変でした。また、今年のスギ花粉の飛散量は、過去10年で最高・最悪レベルとのことです。花粉症で辛い症状に苦しんでおられる方も多くおられると思いますが、そのような方々が守られ、症状が少しでも緩和されて苦しさから解放されますようにお祈りいたします。
さて、少しずつ暖かくなってきておりますので、教会の花壇では椿がきれいに咲き始めています。写真のように1ヶ月前は蕾でしたが、今はたくさん咲き始めています。咲き誇っている花々を見ながら、すべてのことには神様の時があることを感じます。もう少ししたら、ミニバラにも蕾がたくさんできて、5月頃にはたくさん咲くのではないかと思います。ほかの木々も新芽が出てきています。桜の季節ももうすぐです。主の恵み深さを味わいましょう。
さて、約1ヶ月続きました屋根と正面壁の改修工事も先週の月曜日にすべて終わり、足場は今週7日に解体される予定です。待ち焦がれた日光が礼拝堂や建物の中にようやく入ってきます。とても楽しみです。先週の夕礼拝でB宣教師が「苦難には必ず終わりがある」というテーマでサムエル記上27章からダビデのことをメッセージしてくださいましたが、確かに苦しみには必ず終わりがきます。わたしたちの頑張りようが苦難を終わらせるのではありません。神様とイエス様が憐れみをもって苦難に終わりを与えてくださいます。分厚いヴェールに包まれ、薄暗い中で悶々としているわたしたちのヴェールを取り去り、わたしたちの生活に光を与え、苦しみから救い出してくださる方は、慈しみの神様とイエス様だけです。
苦しみの只中に置かれますと、一刻も早くそこから助け出されることを願うのがわたしたちですが、「苦しみには必ず終わりがある、神様が憐れんでくださる」と信じ、今しばらく忍耐し、神様の救いと解放の時を待つこと、待つ信仰が、わたしたちには必要なのです。12日の主日に皆さんが教会に来られる時、ヴェールがすべて取り去られた教会の全容を、きれいになった教会の建物を見て、喜びに満たされることでしょう。今からとても楽しみです。
さて、今週11日は東日本大震災から12周年を迎えます。わたしたちは、翌日の12日に大震災のことを覚え、東北の地に建てられている3つの教会を覚えて祈りますが、献金のご用意をお願いいたします。献金箱の横に、このような「東日本大震災を覚えて」という封筒があります。昨年の3月から現在までに59,600円の献金が集めされていますが、ある方は毎週のようにささげてくださっています。できれば、あと3万円をみんなで献金して、3つの教会に3万円ずつ支援献金をお送りしたいと願っています。
確かに、屋根の修繕のための献金もあります。教会の活動を支える献金もあります。わたしたちの生活も決して楽なわけではありません。確かにそうです。しかし、わたしたちの教会は祝福されています。東北にある諸教会は本当に大変なのです。諸教会は、わたしたちの支援献金を当てにしているわけでは決してありません。東北の地に生きる人たち、大震災から12年経過しても、寂しさや苦しみの中に置かれている人々がまだまだたくさんおられるのです。そのような方々に寄り添い、神様の愛を分かち合っている諸教会を支援しましょう。
今週9日にお茶の水で東日本大震災復興支援メモリアルコンサートがあります。先週の礼拝で特別賛美をささげてくださったMさんとSさんも出演されます。わたしと娘二人は会場設定や受付のボランティアをします。12日には仙台・石巻でコンサートの本番があります。実は、9日のコンサートは最初企画にはなかったのですが、プロデューサーのMさんと話している時に、わたしが「東京でもコンサートを絶対やったほうが良い」と進言した結果のコンサートで、わたしは責任を感じていましたが、幸いにもお茶の水でのコンサートは予約が埋まりました。しかし石巻では、大変なことになっているそうです。
Mさんから一昨日メールがあり、祈りの要請がありました。コンサート会場の416席はすぐに予約で埋まったのですが、キャンセル待ちが200人を超えて、問い合わせが毎日殺到しているそうです。なので、急遽、追加公演をする方向で動きたいのですが、出演者やスタッフのこともあるので、祈って欲しいとのことでした。素晴らしい音楽を通して慰めや励ましを今も求めている人たちが東北には大勢おられるという表れです。コンサートは素晴らしい贈り物になると信じています。しかし、現地の人たちと一緒に生きる現地の教会とクリスチャンを覚えて祈り支えることが、わたしたち大久保教会の責任ではないでしょうか。
さて、3週間ぶりのメッセージなので前置きが長くなりました。2月22日から受難節・レントに入りましたので、どのようなメッセージをすることが神様の御心に適ったことかと色々思い巡らし、祈っていましたら、キーワードが与えられ、今年の受難節のメッセージのテーマが、今回は英語で与えられました。それは「Acts of Love」というものです。日本語では「愛の行動」と訳すのが適切でしょうか、愛の行いでも良いでしょう。4回のメッセージの中で、ルカ福音書以外の3つの福音書に聞いてゆきますが、わたしたちのためになしてくださった救い主イエス・キリストの愛の行動、言動にフォーカスしてゆきたいと思います。
今朝は、第一主日でありますので、主の晩餐式が第二部で執り行われます。弟子たちとの最後の晩餐、過越の食事の時に、イエス様が弟子たちになされた「愛の行動」を今朝はマルコによる福音書14章22節から26節にある記録からご一緒に聴いてゆきたいと思いますが、14章1節に「さて、過越祭と除酵祭の二日前になった」とあります。これは、イエス様の十字架で死なれるまでの48時間という意味でもあります。マルコ福音書の14章と15章は、イエス様の最後の二日間をどのように過ごされたかが記されています。その中で、今朝はイエス様と弟子たちの最後の晩餐にフォーカスしたいと思います。
少し余談になりますが、今から20年ほど前のことをお話しします。その日の朝にも主の晩餐式がありましたが、まだ4歳ぐらいの娘が妻のところに走り寄ってきて、真剣な眼差しで自分の母を見つめて、「Nちゃんもイエス様を信じる!」と言ったそうです。妻はすぐに娘の考えを理解しました。娘も主の晩餐式でクリスチャンたちがとって受けるパンを食べ、ぶどうの汁を飲みたかったのです。幼い子どもたちは、大人たちが食べるパンと飲むぶどうの汁を飲みたいと思うでしょう。わたしも幼い時、同じ思いでした。大人たちが礼拝の中で取るパンとぶどうの汁が食べたかったし、飲みたかった思いがあります。しかし、わたしはその時、主の晩餐式で分かち合われるイエス・キリストのパンとぶどうの汁の意味を知らずに、自分の好奇心からそれを食べたい、飲みたいと思いました。同じ礼拝をささげているのに、大人だけ参加できて、自分は参加できないことに不満を抱くこともありました。
しかし、幼かった娘もそうですが、わたしもキリストのパンとぶどうの汁・杯の意味や主の晩餐式の目的も、その場に参加しているクリスチャンたちの決意も何も知らないで、ただただ「食べたい、飲みたい」という思いだけにとらわれていました。その頃のわたしには、イエス様の十字架への道、十字架での苦しみと死は、どうでも良かったのです。イエス様の十字架と死に、何ら意味を見出せなかった、自分には関係ないと思ったからです。
しかし、小学4年生の夏ごろ、急に「自分は死んだらどうなるのだろう」と考え出し、夜も眠れなくなりました。親や教会学校の先生や友達にも相談できずにひたすら独りで悩みました。父はアメリカへ留学していたと思います。この悩みから解放されないわたしは、祖母のお財布から千円札を盗み出し、学校のプール教室へ行ってくると母に嘘をついてゲームセンターへ行って遊び呆け、お金がなくなると、またお金を盗み続けました。いつ盗んだと思いますか。礼拝の最中に、祖母や親や大人たちが礼拝を神様にささげている時に盗んでいました。その盗みがどれほど続いたでしょう。祖母は母に相談したのでしょう。わたしはついに母に問い詰められ、お金を盗んでいたことを認めました。その後、母は泣いて祖母に謝ってくれました。その時、心の中は恐れや苦しみばかりであることを知ってもらいました。その時、自分は罪人なのだとはっきり分かりました。母は、わたしのためにすぐに祈ってくれました。一緒になって神様に謝ってくれました。わたしは、その事がきっかけで、イエス様を救い主として受け入れて信じました。そしてバプテスマの準備をしている時に、主の晩餐式の意味と目的、イエス様のパンと杯の意味を教えてもらい、今に至ります。
イエス様が弟子たちと最後の晩餐をした時のことがマルコ福音書14章に記されています。イエス様は、その時と場を用いて、弟子たちにご自分の十字架の意味と目的を教えます。なぜ教えたのでしょうか。イエス様は弟子たちを心から愛していたからです。その愛は、今を生きているわたしたちにも注がれていて、イエス様は重要なことを教えてくださいます。
22節と23節を読みましょう。「一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ」とあります。ユダヤの家庭では家長である父親がパンを取り、祝福を求める祈りをし、家族に分け与え、杯も同じようにするのですが、イエス様がここでされた事は弟子たちの記憶にずっと残る事でした。イエス様は、ここでパンと杯をもって、これからご自分が受けられる苦しみと死を関連づけさせ、その意味と目的を伝えようとしています。わたしたちがここで覚えなければならないのは、イエス様はご自分の死を覚悟しているということ。
そのイエス様の死は穏やかな死ではありません。暴力的な死です。パンが裂かれるように、砕かれるような、また杯からぶどう酒が流れ出るような、イエス様の血潮が流される苦痛的な死なのです。イエス様は、わたしたちがパンを食べ、杯を飲む度にそのことを覚えなさい、記念しなさいとお命じになられるのです。わたしたちが覚えること、それはわたしたちの罪を贖うために、神の赦しを受けて救われるために、神の独り子であるイエス・キリストがご自分の命をささげて死んでくださったこと、その命を与えてくださったことです。
イエス様はこう言われます。「取りなさい。これはわたしの体である」と。イエス様は、「これはわたしである。わたしの命である。わたしの命を受けなさい」と言われるのです。なぜそのようにイエス様はおっしゃるのでしょうか。イエス様が神様の愛であり、罪と苦しみからわたしたちを解放して救ってくださる方は、他におられないからです。「わたしがあなたの身代わりとなってあなたの罪を贖い、救おう。あなたはただわたしを信じ、一切の不安や恐れを委ねなさい。わたしの愛を受け取りなさい」とおっしゃるのです。
杯を弟子たちに分け与えた後、イエス様はこうおっしゃられました。24節です。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と。ユダヤ社会の中では、「血」というのは「命」を指すもので、血を飲むことは決してありません。律法で禁じられています。しかし、イエス様は弟子たちが一つの杯から飲んだ後に「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」と言われたのです。飲む前にそのように言っておれば、ユダヤ人の弟子たちは絶対に口にしなかったでしょう。
では、なぜイエス様はそのようになさったのでしょうか。それは、弟子たちは、そしてわたしたちも、主の杯を受ける必要があったからです。わたしたちの罪が贖われ、清められ、救われるためには、イエス・キリストの血潮と死が代償として必要であったからです。ユダヤ教では、人々の罪を贖うために傷のない清い動物が祭司によって祭壇で屠られ、その血が神様にささげられていました。しかし、イエス様はご自分が十字架で死に、すべての人の罪の贖いをすることで、もう動物の犠牲は必要ないとしてくださいました。大切なのは、動物の犠牲ではなく、わたしたちの悔い砕けた心です。この悔い砕けた心は、イエス・キリストを通して与えられる神様の愛を体験しなければ、信じなければ得られない心なのです。
イエス様は、「契約の血である」とおっしゃいます。どのような契約でしょうか。神様からの約束は、「あなたを愛し、どのような時も守り、御心へと導き、永遠に祝福する」というものです。では、わたしたちの側の神様へのお約束は何になるでしょうか。「神様、主よ、あなたを愛し、あなたの言葉に聴き従い、あなたの御心を行います」というように言えると思いますが、大事なのは、「イエス・キリストの十字架と復活を証しする」ということです。皆さんは、神様とどのような約束を交わされているでしょうか。
地上での生活は、苦しいこと、辛いこと、悲しみがあり、その果てには「死」があります。しかし、イエス様は「はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい」と弟子たちに言われました。どういう意味でしょうか。それは、わたしたちの死の先に、神の国で神様との深い交わりが与えられるという永遠の命の約束という希望があるということです。この希望を受け取り、感謝と平安で心が満たされ、神様と隣人と教会に仕えて生きることを喜びとさせていただきましょう。