ルカによる福音書10章8〜16節
今回は、イエス様が72人の弟子たちを任命し、各地へ派遣する際に示された注意事項の後半の部分とイエス様の福音、「神の国は近づいた」という、悔い改めて、神へ立ち返るチャンス、救いへの招きに応えなかった町々に対する叱りの言葉が記されている部分を聴いて行きます。「各地」とは、イエス様が「自ら行くつもりであったすべての町や村」という10章1節の言葉に由来します。
前回の学びでは、弟子たちが「どこかの家」、誰か個人の家に滞在する時になすべきことを示されたイエス様の言葉に聴きましたが、今回の8節から12節では、「どこかの町」に滞在する際に弟子たちがそこでなすべき注意事項が記されています。
一つの町が弟子たちを迎えてくれるというのは、一つの家庭が彼らを迎えてくれるよりも何倍もの大きな喜びだと思います。弟子たちを迎えてくれることイコール主イエスの福音、救いに対してオープンであり、救いを求めていることの証明であるからです。
まず8節に、「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ」なさいとあります。これは「どこかの家」に迎え入れられた時の状況と内容は同じです。すなわち、ユダヤ人である弟子たちがこれから出かけてゆき、出会って福音を伝えてゆく人々のほとんどは異邦人であり、それぞれに宗教的・文化的な食物規定があるはずです。ユダヤ人は食べないけれど、異邦人は食べるという食材もありますし、その反対もあるでしょう。
そういう中で、異邦人の家に、あるいは町に迎え入れられた時、目の前に出される物・料理を食べなさいというイエス様の言葉は、食文化の違いだけで相手をつまずかせないようにしなさいということです。もし出された食事を弟子たちが拒否したら、人々は弟子たちが差し出す福音を拒否するでしょう。ですから、福音を伝えるために、出された食べ物は食べ、飲み物は飲みなさいとイエス様は言われています。
このことを思い巡らしている時に、二つの聖書箇所が思い浮かびました。一つは使徒言行録10章9節以下でペトロが見た幻です。ペトロが空腹を覚え、食べ物を探し始めた時に、天が開き、大きな袋のようなものが四隅で吊るされてペトロの前に下りてきました。その中には、ユダヤ人が食べない動物や鳥が入っていましたが、主は「ペトロよ、これらを屠って食べなさい」言います。しかし、ペトロは「主よ、とんでもないことです。清くない物、汚れた物は何一つ食べたことがありません」と答えますが、主は「神が清めた物を、清くないなどと言ってはならない」と言われます。この後、ペトロは異邦人の家に招かれて行きます。
もう一つの箇所は、コリントの信徒への手紙一の10章27節です。使徒パウロの言葉ですが、神様からの言葉です。「あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」と言っています。「良心」とは、自分の自由意思という意味になりますが、自分の考え・自由を主張するよりも、相手の救いのことだけを考えなさいということです。そのような考えは、同じ第一コリント10章24節の言葉に根ざしています。すなわち、「誰でも、自分の利益ではなく、他人の利益を追い求めなさい」という言葉です。
清くない物、汚れた物を口にすると自分が汚れると思い、そういうものを口にすることを極力避けます。しかし、主イエス・キリストによって罪赦された者に、それ以上の清めが必要でしょうか。一人でも多くの人がイエス様に出会い、罪赦されていること、清められていることを信じ、幸いを得ることができるように福音を分かち合うこと、それが弟子たちの使命であり、「隣人の利益を追い求める」ことであると思います。
次の9節には、「その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい」とあります。「神の国が近くなっている」というのは、時間的な近さではなく、イエス・キリストが救い主として地上を歩んでくださっている距離的近さを言っています。「神、我らと共におられる」という救いの身近さです。その身近さを具体的な形として表し、人々に可視的に見せることが、病人をいやすことでした。「見たから信じたのか。見ないで信じる者は幸いです」という主の言葉もありますが、それは弟子に言われた言葉で、まだイエス様を信じていない人々には「病人をいやす」ことが神の国、神による救いが来たことを具体的に表す大きな力となったのです。自分の罪と弱さを認め、間違いを悔い改めてイエス・キリストを救い主と信じる人は救いが与えられるのです。
けれども、すべての人はイエス様を信じる信仰へと招かれていますが、すべての人がイエス様を信じるように導かれるわけではありません。イエス様を歓迎しない、拒否する人たちも確かにいるのです。そういう人たちが必ずいることを承知していたイエス様は、弟子たちに対して、10節と11節、「しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。「足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ」と」あります。
「足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す」とは、どういう意味でしょうか。いやしが救いの可視化であったように、足についた埃を払い落とすという行為は、神の国の到来を歓迎せず、救い主を拒む町と絶交をするとの具体的な示しなのです。ユダヤ人は異邦人の土地から、その汚れた所から出る時に、異邦人との関係性を切るために、その土地の土埃を払い落としたそうです。この行為を非常に露骨すぎると思われるでしょうが、神の国が近づいていて、悔い改めが必要だと聴いても一向に悔い改めない姿勢のほうが問題であり、神様に対して失礼な行為であり、明確な拒絶なので、神の国を拒む人々に対して、神様の救いから絶縁されることをはっきり示す行為なのです。
12節に「言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」とあります。「かの日」とは、神の裁きの時、主イエス様の再臨の日を表しますが、福音を拒む町よりも、ソドムの方が軽い罰で済むとはどういうことでしょうか。
旧約聖書、ユダヤ教において「ソドム」という町は、神から厳しい裁きを受けた町の代表の町です。「ソドムとゴモラ」にくだされた罪に対する裁き、いわゆる「天罰」については、創世記19章1〜29節に記されていますので、興味のある方はお読みください。そのソドムの方が軽い罰で済むのは何故か。それは、旧約の時代の町の罪よりも、神から遣わされた救い主イエスの福音を拒む町の罪のほうが大きく、それによって罰も重いという考えがイエス様にあるからです。そうなると、今の時代に生きるクリスチャンたち、わたしたちの福音を伝えるという責任も大きいということになるでしょう。
さて、続く13節から16節は、福音を聞いても悔い改めない町々とその人々を叱るイエス様の言葉が記されています。13節から15節を読みたいと思います。「コラジン、お前は不幸だ。ベトサイダ、お前は不幸だ。お前たちのところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない。しかし、裁きの時には、お前たちよりまだティルスやシドンの方が軽い罰で済む。また、カファルナウム、お前は、 天にまで上げられるとでも思っているのか。 陰府にまで落とされるのだ」とあります。
ここに出てくる「ティルス、シドン」は、異邦人の町であり、旧約の時代から異教の町の代表として登場する町々です。ティルスとシドンは、どちらも現代の南レバノンに位置する港町で、ユダヤ人たちからは罪深い町という印象を持たれた町々です。
一方、コラジン、ベトサイダ、カファルナウムは、いずれもガリラヤ湖北部周辺の町々で、イエス様が宣教された場所です。福音の種蒔きがなされた土地です。それなのに、「コラジン、ベトサイダよ、お前たちは不幸だ!」とイエス様に言われます。カファルナウムに対しては、「前は、 天にまで上げられるとでも思っているのか。 陰府にまで落とされるのだ」とまで言われます。どうしてこのようなことになってしまったのでしょうか。イエス様の言葉にその糸口があります。
イエス様は、「お前たち(コラジン、ベトサイダ)のところでなされた奇跡がティルスやシドンで行われていれば、これらの町はとうの昔に粗布をまとい、灰の中に座って悔い改めたにちがいない」と言われます。「粗布をまとい、灰の中に座って」とは、自分の罪、間違いを認め、罪を悲しみ、そして悔い改めて神様に立ち返るしるしです。
異教の町々の中でも特に罪深い町々でさえ、もしイエス様の奇跡・力ある業、いやしや悪霊を追い出す業を見て、イエス様の力を体験したら、その町々の人々はすぐに罪を悔い改め、改心したであろう。しかし、コラジン、ベトサイダよ、お前たちは奇跡を見ても悔い改めない、救い主が近くにいることを認めない、信じない、神に立ち返らない、だから異教の町々の人々のほうが軽い罰で済むと言われるのです。12節と同じです。
わたしたちは、ここから何を聞き、学ぶべきでしょうか。イエス様からの警告として聞くべきではないでしょうか。教会に行って礼拝をささげているから、集会に参加しているから、献金をささげているから、奉仕をしているから、祝福を受けるのは当たり前だと思っていたら、大間違いなのではないでしょうか。イエス様を救い主と信じるとはどういうことでしょうか。16節にあるように、イエス様の言葉に耳を傾けてゆくこと、イエス様の言葉に聞き従って生きてゆくことではないでしょうか。神様の愛と恵みに生かされていることを感謝し、悔い改めに相応しい歩みと行いを日々なしてゆくことではないでしょうか。