「満足しない人を満たすのは神」 八月第二主日礼拝 宣教 2023年8月13日
コヘレトの言葉 2章22〜26節 牧師 河野信一郎
おはようございます。教会へお帰りなさい。夏休みの旅行や出張、様々な事情で欠席の方が多い8月の主の日の朝ですが、礼拝堂に集められた皆さんと共に礼拝をおささげすることができて感謝です。オンラインで礼拝をおささげくださっている方々も歓迎いたします。今週はこれから来る台風7号の影響で大雨や暴風に不安を覚える日が多くなると思われますが、皆さんが台風の被害から守られますようにお祈りします。互いのために祈り合いましょう。
さて、今朝の礼拝は、先週6日と9日の原爆の日、今週15日の敗戦記念日に挟まれている日曜日ですので、「平和を覚える礼拝」としてささげていますが、皆さんにとって「平和」とは何でしょうか。「平和はただの概念、理想であって、地球上に平和など何処にもない!存在しない!」と反発される方もおられるかもしれません。「平和、平和」って言っている人は、平和ボケした人だけと思われるかもしれません。確かに、マスメディアやインターネット上で「平和」を見つけることは非常に困難で、報道される多くは命の奪い合い、憎しみ合い、妬み合い、蔑(さげす)み合い、裏切り合い、憎悪、痛みや悲しみで満ちています。
では、少し角度を変えて考えてみましょう。皆さん個人の「平和」とは何でしょうか。地球レベルの平和から、日本の国家レベル、地域社会レベル、家族レベル、個人レベルの平和など、様々あると思いますが、皆さんにとっての平和とは何でしょうか。皆さんの生活、心の内に平和はあるでしょうか。あるいは、皆さんにとって「幸福・幸せ」とは何でしょうか。いつもどのようなことに幸福を感じるでしょうか。それではその反対を考えてみましょう。皆さんが平和ではないと感じる時と場と状況は、どのような時と場と状況でしょうか。大きな平和を求めることも大切であると感じますが、わたしたちの身近にある平和、小さな平和、心をほんわかさせる平和を積極的に探すこと、目に留めてゆくことのほうが重要なのではないかと考えますが、皆さんはどうでしょうか。
「平和」と「幸福」はまったく違うレベルと感じる方もおられると思いますが、わたしは去る1週間、「平和」という事と「コヘレトの言葉」に何らかの接点はあるのかというようなことを考え、色々なことを思い巡らしながら過ごし、1章と2章を何度も読み返しました。今朝は、そのような中で示されたことをいくつか皆さんと分かち合わせていただき、わたしたちは神様に愛され、恵みの内に日々生かされている存在であることを再確認し、共に神様の憐れみを喜び、恵みを与えてくださる主に感謝をおささげしてゆきたいと願っています。
さて、少し横道から入ってゆきたいと思いますが、コヘレトの言葉の1章16節から18節を読んでゆきますと、「コヘレト」というユダヤの共同体を集めて教え導く教師が非常に大きな悩みを抱え、苦しんでいる状況にあることが見えてきます。すなわち、「わたしの心は知恵と知識を深く見極めたが、熱心に求めて知ったことは、結局、知恵も知識も狂気であり、愚かであるにすぎないということだ。これも風を追うようなことだと悟った。知恵が深まれば悩みも深まり、知識が増せば痛みも増す」と記しています。ここから、平和を感じる、幸せを感じるのに知恵や知識はいらない、ただ心を素直に、自由に感じてゆくこと、感受性が大切であることに気付かされます。平和や幸せを知恵や知識で理解しよう、求めようとするのは、風を追うようなこと、無駄なことであるということだと思います。ごく当たり前で気付かない平和、幸せはわたしたちの身の回りにゴロゴロと存在するのではないでしょうか。
さて、これまでの振り返りになりますが、「コヘレト」は群衆に向かって言います。「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」と。他の聖書訳では、「空の空、空の空、一切は空である」と。この「空しい」というヘベルというヘブライ語、これは時間的な短さ、儚さを意味する言葉です。すなわち、人生は実に短く、儚いという事実を表す言葉です。コヘレトが宇宙、自然を見渡すとすべては循環し、完結せず、満ちることはない、すなわち太陽も風も川もずっと循環するのに、人間はその中のほんの一瞬にだけ存在する儚い者にすぎない、だから空しいとコヘレトが言っていることを先週聞きました。
循環する自然界はいつも満たされているのに、人間は満たされることがない、だから空しいと言っているようです。どうでしょうか、皆さんは満たされているでしょうか。満たされていないから不安になったり、焦ったり、フラストレーションが貯まるのではないしょうか。あるいは、すでに充分満たされているのに強欲にもっと求めようとするので、人間関係の中で衝突が起こったり、分断が起こったり、奪い合いが絶えず起こるのではないでしょうか。
繰り返しになりますが、コヘレトは人生を短く、儚いと見ています。その理由は、自然界は無限のようで終わりがないのに、自分という存在、人間は有限であるから。人生は一瞬にして吹き去ってゆく風のようで、そこに空しさを感じる、そこに果たして意味があるのだろうかと悩んでしまう。しかし、果たして、人生は短く、儚いから意味がないという結論に落ち着くのは正しいことなのでしょうか。人生は短いからこそ、そこに意味があり、儚いからこそ、その人生をどう生きるべきかを深く考え、喜びと感謝に満ちた日々を素直に、単純に、ひたすら歩むことが大切なのではないでしょうか。そのように考えて歩みなさいとわたしたちを導くためにコヘレトは「空しい」という言葉を連発しているのではないでしょうか。
さて、もう一つのことを分かち合います。このコヘレトは、自分のことを「エルサレムの王、ダビデの子、イスラエルの王」と紹介しています。本当はそうではないのに、なぜ人々にそのように認識させようとしているのでしょうか。ダビデの子で、次の王になったのはソロモンでした。自分はソロモンだと言った理由は、ソロモン王は最高の知者であり、最高の富を持つ者であり、最高の権力をダビデ王から受け継いだ者であったからです。列王記上10章23節に、「ソロモン王は世界中の王の中で最も大いなる富と知恵を有し」とあります。
しかし、そのような最高の知者、富豪、権力者、後継者であっても、完璧と思えるような人であっても満たされないものがあり、空しさを感じることがあるということを、この書を読むわたしたちに教えるために自分はソロモンだと自称しているのです。つまり、この世には知恵や知識では得られないものがある、お金では買えないものがある、権力では手にすることができないことがある、後継者でも順風満帆ではなく、絶望することがあるということ、満たされない部分が心にあるということを教えようとしています。ですから、そういう大きな空しいもの、儚いものを求めないで、貪欲にならないで、身近にある本当に小さなこと、ほんの些細なことに幸せを感じ、心満たされなさいとコヘレトは導こうとしているのです。今朝、「空しい」とは自分の力では「満たされない」ということだとぜひ覚えてください。
知恵と知識では幸福、心の平和を得られないと感じたこの人は、苦しんだ末にその空しさから逃げるために、空しさからの解放を求めて快楽へと走ったことがコヘレトの言葉の2章の最初からわかります。1節では「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう」とあり、3節では「この天の下に生きる短い一生の間、何をすれば人の子らは幸福になるのかを見極めるまで、酒で肉体を刺激し、愚行に身を任せてみようと心に定めた」とあります。しかし、それらも空しかったと言っています。
その後にこの人が試みたこと、それは大規模な事業を始めて、そこに生きがいを見つけることでした。4節と5節に「大規模にことを起こし 多くの屋敷を構え、畑にぶどうを植えさせた。庭園や果樹園を数々造らせ さまざまの果樹を植えさせた」とあります。また、7節と8節では「エルサレムに住んだ者のだれよりも多く 牛や羊と共に財産として所有した。金銀を蓄え 国々の王侯が秘蔵する宝を手に入れた」と言っています。しかし、11節では「わたしは顧みた この手の業、労苦の結果のひとつひとつを。 見よ、どれも空しく 風を追うようなことであった。 太陽の下に、益となるものは何もない」と言っています。
どんなに頑張って功績を残しても、16節にあるように「永遠に記憶されることはない。やがて来る日には、すべて忘れられてしまう。賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか」と不満を口にしています。そしてこの人はしみじみ思いながら17節でこう言うのです。「わたしは生きることをいとう。太陽の下に起こることは、何もかもわたしを苦しめる。どれもみな空しく、風を追うようなことだ」と。「生きることをいとう」、他の聖書訳では「生きることを憎む」と訳されています。生きていることが無意味に思えてならないから、生きていることを憎むのです。自分の人生を呪うのです。自分の人生を憎むとは、本当に悲しいことではないでしょうか。彼は自分の人生を憎む理由をこう言い表します。20節と21節です。「太陽の下、労苦してきたことのすべてに、わたしの心は絶望していった。知恵と知識と才能を尽くして労苦した結果を、まったく労苦しなかった者に遺産として与えなければならないのか。これまた空しく大いに不幸なことだ」と。苦労が誰かの利益になってしまう。
この人の心は大きな富や力を得てもまったく満たされないのです。なぜ満たされないのでしょうか。自分の知恵と努力だけで心を満たそう、幸せになろうとしているからです。自分の知恵と力と富と権力で幸せになろう、平和を築こうとしているので、空回りして、心と体にフラストレーションとストレスがたまりに溜まって、すべてが空しく感じてしまうのです。では、どのようにしたらこの苦しみや痛みや悩みから解放されるのでしょうか。どのような心持ちを得れば、心は喜びや平安で満たされるのでしょうか。聖書によると方法は一つだけです。それは神という存在を知り、その神と共に生きることです。この神の存在と愛を知り、受け入れることによって、自分は自分の知恵と努力で生きている存在ではなく、神様によって、神様の愛によって生かされている存在であることを知ることができます。
24節と25節に今朝最後に注目したい興味深いことが記されています。「人間にとって最も良いのは、飲み食いし 自分の労苦によって魂を満足させること。しかしそれも、わたしの見たところでは 神の手からいただくもの。自分で食べて、自分で味わえ。 神は、善人と認めた人に知恵と知識と楽しみを与えられる」とあります。「人間にとって最も良いのは、飲み食いし 自分の労苦によって魂を満足させること」、聖書の言葉とは思えないほど斬新な言葉ではないでしょうか。しかし、ここに神様の愛が記されていると思います。
本当の幸せだなあと思える時、それは飲み物を普通に口に注いで飲めること、食べ物を普通に口から摂って食べられること。当たり前に思っていることに幸せがあるのです。それは健康な時、若い時は当たり前でも、健康でなくなった時、体を自由に動かせなくなった時、当たり前でなくなった時に痛感する本当に身近な幸せ、心の喜びと感謝を覚えることではないでしょうか。まだ動けて、働けて、食べ物が食べれる、飲み物が飲める、そんな些細なこともすべて神様からいただく最高の恵みであり、今日という日を喜びつつ、感謝しつつ、主に信頼しつつ歩む。それがわたしたちの歩むべき日々であり、人生ではないでしょうか。
イエス・キリストを通して罪赦され、新しい命、祝福、恵みの中に今日も生かされていることを喜び、感謝することが真の平和であり、必要な平和ではないでしょうか。その平和をすべての人が平等に神様からいただくことができるように、わたしたちは人々に仕えて生きることを日々選び取って行きたいと願います。わたしたちの願いよりも、神様の願いです。わたしたちの心を愛と平安で満たしてくださるのは神様であり、イエス様であり、聖霊です。自分の知恵と力で生きようとせずに、神様の愛によって生かされて行きましょう。