あなたはどこにいるのか

宣教「あなたはどこにいるのか」     副牧師 石垣茂夫   2023/08/20

聖書:創世記3章9~21節(新共同訳旧約聖書p3)

 

「はじめに」

聖書朗読では、第三章の後半を読ませていただきました。

この第三章は、はじめに蛇の誘惑について語られています。その誘惑に負けたエバはアダムを誘い、神が禁じた定めを破ってしまいます。二人はその事を隠すため、神の目を逃れようとするのですが、それは叶いませんでした。 やがて、戒めを破ったことの責任を、二人は互いになすりつけあいます。そのうえ、「神様、あなたのせいだ」と、居直ってしまいました。そのようにして、神の戒めを破り、それを隠し、遂ついには神なしでて生きようとする人間の本性ほんしょうが、そこに生まれてしまいました。この事をわたしたちは「原罪」(original sin)と呼びます。

【スライド1】さて、聖書が問題とする「罪」とは何だろうか。日本語の「罪」とは何だろうかと、わたしが考えている時に、あるコラムに出会いました。そこには次のような三つのことが書かれていました。

第一に、聖書で使われる「罪」という言葉は、弓が狂っているために、矢が「的をはずれてしまう」という状態を言っている。神によってつくられた人間が、神のようになろうとすることを言っている。そのため、罪とは「的はずれ」と言われる。

第二に、英語の「SIN」の原意は「細かく、切れ切れに切れていく」ということ。神とのつながり、人との繋がり切れ、自分の内面とも切れて混乱してしまう、そのような有様を言っている。

第三に、日本語の「罪」という言葉の源みなもとは、「包つつみ隠かくす」が短くなったものである。「かくす」が短くなって「つみ」になった。

このように、三つのことが書かれていました。

日本語の「罪」の原意げんいが「包つつみ隠かくす」ということであるならば、創世記三章、アダムとエバが、神の目から隠れようとした出来事と重なります。不思議なつながりを覚えました。ヘブライ語、英語、日本語の「罪」という言葉は、どのような背景を持って生まれたのでしょうか。興味深く読みました。

 

神に背いた蛇とエバ、そしてアダムは、神の罰を受け、楽園を追放されてしまいました。本来ならばここで終わりかもしれません。しかし聖書はここで終わってはいません。神は、二人が犯してしまった罪を厳しく指摘したうえで、これを赦し、二人と一緒に楽園を出てしまいます。人はその後も罪を犯し続けるのですが、神は、「罪の人」としてしてしか生きられない、人と共に生きることを選び、どこまでも創つくった者としての責任を、果たそうとされます。

聖書は全巻で、そのような神の慈いつくしみ深い愛と熱情は、イエス・キリストにおいて現わされたと、わたしたちに語りかけていきます。

【スライド2】三浦綾子さんの「氷点」(The freezing point)という小説について、知っておられる方は多いと思います。60年前のことですが、キリスト者の三浦綾子さんは、聖書の「原罪」を題材にした「氷点」(The freezing point)を「新聞小説」に応募して第一位となり、1964年の一年間、朝日新聞に連載されました。以来、その時代を代表する作家となりました。この、作家としての活躍は、夫である光世みつよさんの支え無くしては生まれなかったと、誰もが認めています。

「氷点」は、長年にわたってテレビや映画のドラマとなって繰り返して放映されました。この作品には、神の赦しなしでは克服できない、ひとり一人の心の奥底に潜む罪の姿が描かれています。

小説「氷点」と、6年後に出版した「続・氷点」によって、生まれながらに背負っている「原罪」、自分の力では克服できない「原罪」に苦しむ主人公に、隠れていないで、日の当たる場所に出て生きなさいと呼びかけます。 キリストの十字架の血こそが、重苦しい「原罪」から解とき放はなつのだと、三浦綾子さんは二つの作品を通して伝えようとしています。

神は、自分の前から逃げ隠れするアダムとエバに対して、「あなたはどこにいるのか」、「お前は何ということをしたのか」と呼びかけて、関りを求めていきます。それは、今日のわたしたちに向けた呼びかけでもあります。

全てのことをご存じの神は、迷い出てしまう子羊のような人間を、諦めずに呼びかけて探し、「皮の衣」を着せてまで、共に生きようとされます。神の慈いつくしみ深い思いを、今日の御言葉から、ご一緒にお聞きしたいと願っています。

「創世記第三章の断想」

初めに、お読みしなかった個所を含めて創世記三章全体を見渡してみたいと思います。

【スライド3】最初に登場するのは蛇です。蛇も間違いなくわたしたちと同じように、神様が造られた生き物ですが、なぜあのような姿なのでしょうか。音もなく獲物に忍び寄る、不気味な姿です。その蛇は、生き物の中で、最も賢かしこさを持つものとして登場します。

蛇は、エバに近づいて、こう問いかけました。

「神はあなたがたに、園のどの木からも食べてはいけないなどと言ったのですか。」(3:1)

蛇は、神の言葉に疑問符(?)を付け、神の善意を否定し、神に背を向けるようにとエバを誘っていきました。

【スライド4】エバが答えます。「わたしたちは、どの木からも食べて良いのです。ただし、園の中央に生えている木の実だけは、食べてはいけないのです。触れてもいけない。死んではいけないからと、神はおっしゃいました」(3:3)。

蛇は言いました。「決して死ぬことはないのです。それを食べると、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのです。食べれば、あなたは神のようになれる。だから神は食べるなと言うのだ」と誘いました(3:4,5)。

そのように言われてエバが木を見ると、その実はいかにもおいしそうで、賢くなりそうでした(3:6a)。

【スライド5】「女は実をとって食べ、男にも渡したので、彼も食べた。」(3:6b)。

蛇の計略は見事に成功しました。

「神はあなた方に、本当の良きものを与えようなどと思ってはいない。知恵を与えないようにしているだけだなのだ」。このように誘ったのでしょう。

わたしたち人間は常に、知恵に富むこと、賢くあることを求めてはいないでしょうか。

蛇はそこを突いて、知恵を得るならば、あなたは「神のようになれる」と誘惑したのです。「神のようになれる」とは、どのようなことでしょうか。うまくゆけば、自分は神に並び、さらには神を超え、神との縁が断ち切れると誘惑されていったのでしょう。

 

確かに知恵は大切であり、良きものであり、賢くあることは必要です。その反面で、知恵や賢さが人間にってどれほど危険なものになるのか、神との縁を断ち切った人間の行く末を、聖書は伝えようとしています。

現在のわたしたちは、知恵を駆使し、賢く振舞ってきたその結果がどうなるかを、存分に知らされているのではないでしょうか。

核物質が発見されれば、それを兵器に転用しました。半導体やリチュウム電池も、無人の兵器に応用されて脅威となり、今やAIエーアイも同じ運命にあります。世界も、そこに生きる私たちも、誰もが皆、不安を覚え、魂を病やんでしまってはいないでしょうか。

その根源的な原因が、神との関係を嫌った、「原罪」にあるように思います。現代のわたしたちは今こそ、人間の罪の問題に行き着いて考える、そのような局面きょくめんに立っているのではないでしょうか。

 

やがて、蛇の誘惑に乗ったことで起きた事態と、創造つくり主ぬしである神の審判が7節以下に記されています。

二人は裸であることを知り、これを恥じて無花果いちじくの葉で腰を覆おおいました。この裸の恥とは、二人が向き合ったときの、二人の間の恥ずかしさではなく、神に対して裸では出られないという意識を意味しています。自分はもう、そのままで神の前に出ることが出来ない、そのような恥ずかしい存在になってしまったことを知ったのでした。

そのうえ、自分たちの犯してしまった罪の恥を自分で隠そう、神の目に見えなくしてしまおうと試みたのです。無花果いちじくの葉とはその象徴です。表現を変えますと、自分で自分を救おうとしたのです。そにため、園で神の足音を聞いた時に恐れ、急いで木の間に身を隠すほか、身の置きどころがなかったのです(3:7,8)。

全てをご存じの神は、それでもこのように呼びかけます。

【スライド6】3:9 主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」

神の呼びかけに答え、二人は姿を現しました。しかし二人は、それぞれ、空むなしい責任逃れを言いはじめました。

 

【スライド7】アダムは答えた。「あなたがわたしと共にいるようにしてくださった女が木から取って与えたので、食べました。」(3:12)

アダムは、責任をエバに転嫁します。問題なのは、「あなたが・・・」と、まるで「神様、あなたが与えてくださったあの女が誘ったからだ」と、神に責任を転嫁していったことです。

また、エバも、「あなたが造った蛇にこそ責任がある」と言い逃れをしたのです。

 

「審判と追放・皮の衣」

こうして責任逃れする彼らに対して、神は審判を下しました(14~18)。

まず蛇に対しては、何らの対話もないまま、問答無用の「呪い」を宣告しました。

これに対してエバとアダムに対する、宣告は重いものではありましたが、不思議なように、呪いの言葉は一切ありません。

このとき神は、エバに対しては「お前は、苦しんで子を産む」(3:16)と、母としての重荷を告げます。

そしてアダムには、生涯にわたる、労働の苦しみを告げました。

しかし宣告のその背後に、「このようにして、なお生きなさい」と、執行しっこう猶予ゆうよのような、優しささえ感じさせる処分を下して楽園を追放しました。そのとき神は、二人に「皮の衣を作って着せ」たのです。

【スライド8】3:21 主なる神は、アダムと女に皮の衣を作って着せられた。

それは、二人の命を守るためでした。なんという優しさにあふれた扱いでしょうか。

それにしても「皮の衣」には、どのような思いが込められているのでしょうか。

 

「キリストを着る」

【スライド9】

招詞では、ガラテヤの信徒への手紙のみ言葉をお読みしました。27節にこのように書かれています。

 3:27 洗礼バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。

わたしたちは、「皮の衣を作って着せた」との言葉から、27節のパウロが表現した「キリストを着る」という言葉を思い起こすのではないでしょうか。

 

ある人は「キリストを着る」ということについて、このように言っていました。

『キリストを着るまでのわたしたちは、実はアダムの衣ころもを着ていたのです。いつかは朽ちていく、罪の衣をアダムから受け継いで着ていたのです。これは「罪の衣」です。そのために、救いを望まない「罪の子」のままであったのです。

この「アダムの皮の衣ころも」は自分で脱ぎ捨てることはできないのです。自分ではできなかった罪と死からの解放を、神はキリストによって果たしてくださったのです。バプテスマを受け、キリストに結ばれるなら「キリストを着る」ものとされます。「バプテスマ」の必要はここにあります。』

このように述べていました。

 

「婚宴の礼服のたとえ」

それでは、なぜキリストの「バプテスマ」でなければならないのでしょうか。

「皮の衣」に代わる「キリストを着る」という言葉に関連して、もう一つ、思い浮かべる「主イエスのたとえ話」があります。

マタイ福音書22章に、主イエスがなさった「婚宴のための礼服のたとえ」があります(マタイ22章1~14節)。ここには、招かれた客が着る「礼服」について語られています(p42)。

【スライド10】『あるとき王が、自分の王子の結婚披露宴を開こうとしました。その日、予あらかじめ招いておいた人たちを呼びにいかせた。ところがある者は忘れ、ある者は無視し、ある者は乱暴を働いて拒み、だれ一人、婚宴の席に集まって来なかった。

王は激しく怒り、約束を守らなかった彼らを処罰した。そして家来にこう命じた。「町の大通りに行き、だれでも構わず連れて来なさい」。

〈問題はここからです〉

そのため、婚宴の席は客でいっぱいになった。王が、客の様子を見ようと入って来ると、礼服を着ていない者が一人いた。王は、「友よ。どうして礼服を着ないで入って来たのか」と問いますが、この者は黙っていた。王は「この者を縛って放り出せ。招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」と言った。』(マタイ22:1~14)

主イエスは、このような不思議なたとえ話をしました。ここでは、「礼服」を着たのか、着ていなかったのかが問題となっています。

この日の「礼服」は、急いで人を集めますので、全員の礼服を王が用意したと考えられます。王が用意した礼服でなければいけなかったのです。

礼服を着ていない者が一人いた。王は、「友よ。どうして礼服を着ないで入って来たのか」と問いかけました。

それでは、礼服を着ていなかった一人は何を着ていたのでしょうか。

この人は、着替える必要のないほど、いつも立派な服を着ていたのかも知れません。しかしどんな理由があるにせよ、この日、婚宴の席に座る時には、王が定めて用意した、その場に相応しい礼服を着なければなりませんでした。その人はこれを無視したと考えられます。

バプテスマ(洗礼)とはまさに、わたしたちが神に前に立つために、神様が用意して下さった「礼服」なのです。しかも、神が用意した礼服、キリストの「バプテスマ」でなければならないのです。わたしたちにも、この「礼服」を着ることが求められています。バプテスマこそ礼服であり、パウロが言った「キリストを着る」ことなのです。

創世記の、「皮の衣」から始まったわたしたち人間の衣装は、「バプテスマ」に導かれました。

「洗礼バプテスマを受けてキリストに結ばれたあなたがたは皆、キリストを着ているからです。」

「どこにいるのか」と呼びかけてくださる神の声に耳を傾け、余分なものを脱ぎ捨て、「キリストを着て」、毎日を送らせていただきましょう。日々、装よそおいを新しくして生きましょう。それがわたしたちに求められていることです。 【祈り】