御子を守るためにエジプトへ逃亡したヨセフ

「御子を守るためにエジプトへ逃亡したヨセフ」 新年礼拝 宣教 2024年1月7日

 マタイによる福音書 2章13〜18節     牧師 河野信一郎

 

新年、明けましておめでとうございます。2024年の最初の主日の朝を迎えました。今年も皆さんとご一緒に、神様へ心からの賛美と礼拝をおささげしてゆきたいと願っております。どうぞよろしくお願いいたします。さて、12月31日の年末感謝礼拝から翌日の1月1日の元旦礼拝へとスムーズに移行していったと感謝し、安心しきっていた時に長い横揺れを牧師室で感じました。クリスマスツリーのオーナメントや木製ハンガーが揺れてカタカタと音がなっていましたが、まさか能登半島で大きな地震が発生していたなど思いもしませんでした。アメリカの妹から「大丈夫か」とラインがあっても他人事のように「新宿は大丈夫」と返信しただけで、その後に能登半島地震のニュースを知り、自分の鈍感さに唖然としました。

 

石川、富山、福井の各県在住のご親戚やお知り合いは大丈夫であったでしょうか。新潟県上越市のKご夫妻や新潟に帰省中であったN兄も大丈夫との情報をSNSで確認することができて安心しました。K教会、F教会、T教会も被災しなかったとの情報があって安堵していましたが、能登半島の輪島市、珠洲市、能登町、穴水町、七尾市など、地震による家屋の崩壊、津波や火災や土砂崩れ等による甚大な被害が出ているということです。それに加え、1000回以上の余震、冷たい雨や凍える雪、そして崩れた家屋や土砂や道路の崩落が救出活動と支援物資の手を阻んでいるとの報道です。今日現在では死者が126人、安否不明が210人もおられます。愛する家族を一瞬で失ってしまった人たちが大勢おられます。避難所でも感染症が拡大しているそうです。救援が届かない場所で孤立しておられる人たちもまだまだ大勢おられるそうです。この時も大きな悲しみと痛みと混乱の中におられます。

 

日本基督教団のW教会はほぼ全壊状態、N教会は一時避難所となっている情報などが入ってきています。すでに被災地入りして支援を始めているキリスト教団体も複数あります。義援金・支援金の募集もすでに始まっていますが、日本バプテスト連盟として動くか分かりません。今すぐに募金されたい方は、信頼のおける団体へ直接送金してください。そういうことは全く分からないという方は、いくつかの団体をご紹介できますので、わたしまでお問い合わせください。しかし、募金はいっさいお預かりできませんのでご了承ください。

 

皆さんも良くご存知のように、能登半島地震の翌日の2日には羽田空港で旅客機と海上保安庁の飛行機の衝突事故が発生しました。その翌日の3日には渋谷や秋葉原で殺傷事件が起こり、北九州でも有名な繁華街の大規模な火災が起こりました。昨日は、品川駅のホームで女性を突き落とす殺人未遂事件が起こりました。ところ変わってパレスチナとイスラエルの地では、ガリラヤ湖の北西部、イエス様が水を葡萄酒に変えた最初の奇跡を行った町カナとイエス様が育った町ナザレのちょうど中間地点で、武装組織ヒズボラによる無差別ミサイル攻撃が激化しているそうです。ガリラヤ湖周辺さえも、もはや安全とは言えなくなっています。お隣の韓国では北朝鮮による砲撃があり、緊張感が高まっています。

 

先日教会を訪ねて来られた方から、「元日から続いているすべての悲惨な出来事は世の終わりが近づいている前兆でしょうか」と質問されましたが、意地悪なわたしは「そうかも知れません。しかし、もしそうであるならば、皆が悔い改めて神様に立ち返る必要がありますね。でも、こんなにも酷いことが日々連続して起こっているのに、日本の人々が悔い改めて神様に立ち返らないのはどうしてでしょうね」と逆に質問してしまいました。皆さんであれば、どのように返答されるでしょうか。

 

一瞬にして尊い命を落とす危険性や大切な家族や友人を失う危険性がわたしたちにも常にあるのです。もしかしたら、今日が大久保教会での最後の礼拝になるかもしれません。もしかしたら、もうこの礼拝堂に戻れないかもしれません。それなのに、どうして居眠りしまうのでしょうか。なぜ他人事のように振る舞ってしまうのでしょうか。なぜ緊張感がないのでしょうか。心のどこかで「自分は大丈夫」という驕り高ぶりがあるからではないでしょうか。

 

イエス様は、「目を覚ましていなさい」と言われます。イエス様の再臨がいつ来ても良い備えをしておく必要があります。そうでないと手遅れになります。そうならないために、お互いを気遣い合い、祈り合い、支え合う神の家族が神様から与えられています。もしあなたにそのような家族がないのであれば、まだ時間のあるうちに、いえ、神の家族に加わる決断を速やかに今日されることをお勧めします。イエス様につながるように、キリストの体なる教会につながること、そこにはあなたの思いを遥かに超えた神様の御心があるのです。

 

さて、クリスマスから2週間が経ちましたが、まだ2週間しか経っていないのです。しかし、日本ではクリスマスが終わる直前からお正月の準備が始まり、お正月が終わるとすぐにバレンタインデーの準備が始まっています。日本人のメンタリティーはどうなっているのかと日々驚くばかりです。日本人のメンタリティーというよりも、日本社会の様々な企業たちのメンタリティーが金儲けのことしかないのかなぁと呆れてしまいますが、アフタークリスマスにも神様の不思議な救いの出来事と備えがあることを心に留める必要があります。

 

クリスマスの出来事は、マタイ福音書とルカ福音書に記録されていますが、マタイとルカでは、そのカラーは正反対と言って良いとほど違います。ルカ福音書では、神から遣わされた御使いの神の子の誕生の予告に対して、マリアの「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」という信仰から救い主の誕生物語が始まり、御使たちの賛美が暗闇の中で全地を覆い、羊飼いたちの礼拝と賛美に続くのですが、このクリスマスの物語の終わりは、マタイ福音書では、東方からの占星術の学者たちの礼拝の後、ヘロデ王という時の権力者の傲慢さと一時的な感情・怒りによってベツレヘム周辺一帯の男児が大勢殺され、子どもたちを失った母親たちの嘆き悲しむ声がその一帯を覆い尽くしてゆきます。

 

クリスマス物語には光と闇の部分があります。多くの場合、喜ばしい光の部分だけが強調され、闇の部分は触れません。クリスマスが正月に、正月がバレンタインデーに急速に移り変わってゆくように、闇の部分はサッと飛ばされてゆきます。救い主は世の光として闇の中に誕生しましたが、その光を殺そうとする闇の力があったという事実を知っておく必要がありますし、イエス様の誕生から2024年経過した今も闇の力が真の光を消そうとしていることを知っておく必要があります。しかし、闇は光に勝つことはないと聖書に宣言されています。この宣言があるから、わたしたちは人間の罪深さとサタンが作り出す闇の部分も恐れずに直視し、信仰をもって聴くことができ、神様の愛の中で生かされている者として、その中でどのように生きるべきかという神様の御心を知ることと従順に生きることができます。

 

ルカ福音書のクリスマス物語ではマリアの信仰と行動が際立っていますが、マタイ福音書では彼女の夫ヨセフの信仰と行動が際立っています。今回のメッセージと次回のメッセージでは、このヨセフという人の信仰とその行動力に注目してゆくのですが、この人は本当に凄い人です。聖書の中では、ヨセフは一言も発しません。不思議な程までに無言を貫きます。マタイ福音書では、彼の登場は2章で終わっています。しかし、ヨセフは神様から預かった神の子イエスとその母であり妻であるマリアを守り続けることに徹します。彼は、幼いイエス様とマリアを守る護衛官の役に徹します。

 

マタイとルカの福音書はヨセフを非の打ち所がない人物として記録しますが、ヨセフは何故そこまで自分の役割に徹することができたのでしょうか。その理由はいくつか考えられます。彼は、1)まず主なる神様を畏れ、2)神様のお言葉を信じ、3)その主の言葉を常に第一にしたからだとわたしは思います。自我があるとその思い・感情が言葉になって口から出てしまうのですが、無言であったとは自我を捨てて、神様の御心に従順に従ったということの表れ以外の何物でもないと思います。神様への信仰と服従です。このヨセフの信仰と服従は、神様を畏れるという事と神様からの約束を信じたことに由来していると思います。その事を2回のメッセージから聴いてゆきたいと願っていますが、今朝はその1回目です。

 

ご一緒に13節から15節まで読んでゆきましょう。「13占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」14ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、15ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。」とあります。

 

ここには大切なことがいくつか記されています。まず、「主の天使が夢でヨセフに現れて言った」とあります。天使が発した言葉は、神様から託された「神様の言葉」です。神様は、夢の中でヨセフに現れて、これからなすべき事を明確に告げ、その理由も的確に伝えます。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている」と。

 

救い主としてお生まれになった幼子を礼拝するために羊飼いたちが「馬小屋」を訪問した時から占星術の学者たちが礼拝するために「家」を訪れた時まで、1年から2年の年月が流れていたことが推測されますが、ヨセフとマリアにはナザレに帰って、そこで家族で暮らす計画があったのではないかと思います。あるいは、そのままベツレヘムで生活しようと考えていたのか分かりませんが、神様はヨセフにエジプトに逃げ、次の指示が出されるまでそこにずっと留まり続けなさいと命じます。この命令は、ハードルがけっこう高いと思います。

 

北に約100キロ離れたナザレという地元ではなく、真逆の南に200から300キロ離れたエジプトへ逃れなさいと命じるのです。エジプトには既にユダヤ人のコミュニティーがいくつも確立されていたそうですが、生活の基盤がないところに移り住むにはけっこうな勇気と決断が必要です。しかし、14節と15節にある通り、「ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた」のです。なぜ彼はそのように直ちに行動に移せたのでしょうか。それはヨセフに「神は我々と共におられる」という神様の約束の言葉と神様から託された御子の命を守るという明確な使命があったからです。

 

またエジプトに逃亡する資金も、占星術の学者たちを通して神様が黄金を与えてくださっていました。神様のお言葉に聞き従えば、神様はすべての必要を必ず満たしてくださると信じていたのです。わたしたちも、神様はいつもわたしと共に歩んで導いてくださり、必要をすべて満たしてくださると主に信頼するならば、この新しい年も初日から前途多難にどうしても見えますが、神様がイエス様という言葉と聖霊によって守り導いてくださるはずです。何故そう言い切れるのか。それは祝福の約束がイエス・キリストを通してすでに神様から与えられているからです。この約束の言葉であるイエス・キリストに聴き続け、信頼し続け、従い続けることをわたしたちのすべての営み、生活の基盤とするのです。

 

16節から18節を読みましょう。「16さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。17こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。18 『ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、 慰めてもらおうともしない、 子供たちがもういないから。』」とあります。ヘロデの怠慢さと傲慢さについては次回お話しすることにして、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子が皆殺しにされたこととその一帯に激しく嘆き悲しむ声が満ち溢れた事に注目したいと思います。今、ガザ地区で幼い子どもたちの多くが権力者たちの傲慢さの犠牲となり、激しい嘆きと悲しみが響き渡り、そして怒りがその一帯だけでなく世界中にも響き渡り、世界中で抗議活動が続いているからです。

 

18節にある「ラマ」というのは、ベツレヘムとその周辺にあった古代の町の名前で、のちにイスラエルという名前に変わるヤコブの妻ラケルが埋葬された土地です。つまりイスラエル民族の母のような人の墓がある場所です。そこに眠っているラケルの泣き声が時代を超えて、パレスチナ全体に、世界中にこだましているのです。17節に「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」とありますが、人間の欲望・罪から生み出される悲しみを聖書は「実現した」と書き表します。しかし、神様がなされる救いの業は、15節にあるように「主が預言者を通して言われていたことが『実現するためであった』」と明記します。わたしたち人間は間違いを繰り返し、罪の上に罪を重ねてゆきます。しかし、そのような罪深いわたしたちを救うために救い主がこの地上に誕生し、その御子を守るためにヨセフは神様に用いられたのです。神様は、わたしたちをどのように用いようとされ、どのようなご計画があるのでしょうか。「主よ、御心がなりますように」という信仰が重要です。