ルカ(83) 失った銀貨の譬えを語るイエス

ルカによる福音書15章8〜10節

ルカ福音書15章でイエス様が語られた3つの譬え話の中から、今回は2番目の譬えに聴いてゆきたいと思います。8節の最初に「あるいは・また(口語訳)」という接続詞がありますので、テーマは前回の1節から7節と同じということになります。そのテーマとは、失われたものが見つかると、神様のおられる天に大きな喜びがあるということです。

 

この15章にある3つの譬え話は、神様の側からの視点とわたしたちの側からの視点で読むことができます。それは、失われた大切なものを見つけ出す神様の喜び、そして神様に見つけ出されたわたしたちの喜びです。想像力を発揮してみましょう。わたしたちを大切な存在と見てくださる神様がおられます。その神様が、罪を犯して迷い出て神様から離れてしまった者たちを見つけ出してくださった。その時に神様の喜びが天にあり、わたしのような者を神様が憐れみ、見つけ出してくださったという喜びが地にある。喜びが天と地にあるとは、なんと素敵なことではないでしょうか。それが真の平和なのではないかと思える程です。しかしその素敵さを追求するために、神様が大きな犠牲を負ってくださったというところに神様の愛がある。これがイエス・キリストの福音なのです。

 

さて、今回の譬えの主役は、一人の女性です。この譬えには家族が出てきませんので、独身であったかもしれません。また彼女が喜びを分かち合うのは女性たちであることも注目すべき点です。当時のユダヤ社会では、女性の立場は非常に弱いものでした。父、夫、もしくは兄弟の力に頼り、彼らによって守られ、養われなければ生きていけないような肩身の狭い立場に置かれていました。そういう偏見を持っていた代表が、これらの譬えを語る発端となったファリサイ派の人々、律法学者たち、自分を義人だと主張する人たちです。

 

しかし、この譬えに登場する女性は、他の女性たちと一緒に喜びを分かち合うのです。この3つの例えからイエス様が伝えたかったのは、女性も男性も、庶民であろうが、宗教的指導者であろうが、みんな神様に愛され、みんな神の国へと招かれていることを共に喜び合うことが神様の御心であり、神様の喜びであるということであったと感じます。

 

さて、8節に「ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くした」という譬えが語られます。ドラクメ銀貨とは、ギリシャの通貨で、ローマ通貨のデナリオン硬貨と同じ価値になります。ドラクメ1枚は、デナリオン1枚と同額です。それは農園で働く労働者1日分の給料です。1日5千円という単純計算だと、ドラクメ銀貨1枚5千円、10枚だと5万円です。経済的にある程度余裕のある人にとって、5万円な「へそくり」程度の額だと言うかもしれませんが、この譬えに出てくる女性にとっては、非常に大切で必要なお金です。彼女の目的は分かりませんが、一生懸命に働いて蓄えたものであったかもしれませんし、必要なものを購入するための資金であったかもしれません。

 

しかし、彼女にとってドラクメ銀貨1枚がどれだけ大切なお金であったのか、その価値は8節後半の、「その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」という言葉から分かります。当時の家はガラス窓のようなものはありませんから、室内は薄暗く、ともし火だけでは見つけるのは困難であったはずです。しかし、彼女はともし火を頼りに、家中を掃き、見つかるまで懸命に、血眼になって捜します。彼女の執念さは驚きです。ここでイエス様の「捜さないだろうか」という問いかけによって、これは譬え話であることを再認識させてくれますが、わたしたちも彼女と同じような経験、大切な物を失って懸命に捜し回ったという経験はないでしょうか。日本では、お財布を落としても手元に戻ってくる確率は高く、外国からの旅行者は日本人の正直さに驚嘆するそうですが、その話は別として、大切なものを失った時、わたしたちは必死に捜すと思います。捜さないのであれば、さほど重要なものではないのでしょう。

 

しかし、捜していたものが見つかると、捜していた人の心に大きな喜び、安心感が溢れ出ます。裕福な人にとっては、ドラクメ銀貨一枚はさほど痛い金額で、なんとも思わないでしょうが、社会の中で本当に弱く貧しい立場に置かれている人々にとっては、ドラクメ銀貨一枚は非常に高価な金額です。この譬えは、社会の中でどんなに小さくされていても、神様にとっては高価で尊い存在であり、神様の愛の中に招かれている存在であること、そのようなわたしたちを薄暗い闇の中で探し出すためにイエス様という救い主によって大捜索をしてくださった神様の愛をわたしたちに教えてくれます。

 

10節にこの譬えの結論があります。「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」とあります。先ほど、「みんな神様に愛され、みんな神の国へと招かれていることを共に喜び合うことが神様の御心であり、神様の喜びであるということであったと感じる」と申しましたが、神様の最高の喜びは、神様が一方的にわたしたちを捜し出してくださることにわたしたちが気づき、その神様の愛の中で自分の価値を見出し、悔い改めて神様のもとへ立ち帰るということです。

 

旧約聖書のエゼキエル書18章23節(p1322)に、「わたしは悪人の死を喜ぶだろうか、と主なる神は言われる。彼が(彼女が)その道から立ち帰ることによって、生きることを(神は)喜ばないだろうか」とあります。神様は、わたしたちが神様の愛を知らずして闇の中で死を迎えることを望みません。神様の望みは、わたしたちがイエス・キリストという世の光によって闇から光へと移され、神様に向かって光のうちを歩み、神様の招いてくださる天に入れられることにあります。しかし、自分のこれまでの間違い・神様に対する罪を認め、悔い改めて神様に立ち帰るならば、神様は御腕を大きく広げてわたしたちを抱き抱えてくださり、「お帰り!」と言ってくださり、神の国で大きな喜びが満ち溢れるのです。神様に「お帰り!」と言われる光景を思い描いてみてください。そこに大きな喜び、平安、希望を見出すことができ、感謝が溢れるのではないでしょうか。

 

その心に溢れ出す喜びと感謝という大きなエネルギーを、わたしたちはどのように活用すべきでしょうか。その答えが9節にあります。「友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』」とあるように、神様に愛されている恵みを、喜びを友人や隣人と分かち合うということです。わたしたちの多くは、そのことを積極的にしません。ですから、日本でのクリスチャン人口は1%未満なのです。神様の愛がわたしたちに豊かに注がれているのは、わたしたち個人が喜ぶためだけではなく、家族や友人や隣人と分かち合うためであることをここから聴いて、神様の愛を分かち合う者とされてゆきたいと願い、祈ります。次回は、有名な「放蕩息子」の譬えですが、15章11節から24節、そして25節から32節と2回にわたってお話しいたします。