キリストは神の憐れみ

「キリストは神の憐れみ」  九月第二主日礼拝  宣教要旨  2014年9月14日

テモテへの第一の手紙1章12〜17節      牧師 河野信一郎

 神の愛・憐れみは、神から遠く離れた人たちや神を認めない人たちにも注がれています。その最も良い例が使徒パウロです。彼は愛弟子テモテを励まし、キリストの福音を伝える忠実な者としてどのように歩むべきかを指導するために手紙を送りますがテモテのことを「信仰によるわたしの真実な子」と1章2節で云っていますので、この手紙は伝道者である父親から同じく伝道者である息子へ書き送られたものであると理解することができます。

 父パウロの手紙は、何の隠し立てもないストレートな手紙です。12節で「わたしは自分を強くしてくださったわたしたちの主キリスト・イエスに感謝する。主はわたしを忠実な者と見て、この務めに任じてくださった」と云っていますが、彼は2つのことを主に感謝しています。

 1)キリストの福音を宣べ伝える務めに任じられたこと。2)務めを全うできるように必要な力を主が惜しみなく注ぎ、彼を強くしてくださったということ。主が共に歩んで、必要な力と勇気と知恵と言葉を与え続けてくださっている恵みを絶えず喜び、感謝をしています。同様に、主イエスはわたしたちをキリスト者として召してくださり、福音を分かち合い、礼拝をささげ、教会を建て上げ、互いに仕え合ってゆく務めを与えてくださり、その働きをしっかりと成してゆくために、主イエスは日々わたしたちに力と恵みを豊かに注いでくださっています。

 「主はわたしを忠実な者と見て」とパウロは云っていますが、「主イエスはわたしを信頼してくださって」という意味の言葉です。ですから、主イエスはわたしたちを今日も信頼してくださっていることを心に覚え、喜びと感謝をささげてゆきたいと心から願いますが、重要なのは主への忠実さであります。主には忠実、隣人には誠実、自分に対しては信実でありましょう。

 さて、父パウロは息子に対して自分の過去を13節で包み隠さず伝えます。「わたしは以前には、神をそしる者、迫害する者、不遜の者であった。またわたしはこれらのことを信仰がなかった時、無知なためにしてしまった」と告白しています。ユダヤ教徒としては熱心なリーダー的存在であったパウロが「信仰がなかった、無知であった時」というのは、イエス・キリストを救い主と信じる信仰がなかった時、キリストが神の子メシアであることを知らなかったが故にキリストをそしり、キリストに従う者たちを迫害する非常に傲慢な人間であって、死に値する者であったと云うのです。しかし「そのようなわたしを主は憐れんでくださって、愛し、赦し、救い、信頼して使徒としての務めに任命してくださった」と云うのです。それだけでなく、14節にありますように、「主の恵みが信仰と愛とに伴い、ますます増し加わり、今も限りなく豊かに注がれている」と息子テモテに対して父パウロは書き記しています。

 この主の愛・憐れみはわたしたちに豊かに注がれていますが、どのように受け取ったら良いのでしょうか? その答えは15節です。「キリスト・イエスは罪人である私を救うためにこの世に来てくださった」という福音を信じ、そのまま心に受け入れることです。「わたしは罪人の頭である」とパウロは告白していますが、わたしたちも自分が罪人であり、神の憐れみとキリストの贖い・救いを受けなければならないことを認め、悔い改めて主に立ち返ることです。

 罪人であったわたしに対して「主イエスが限りない寛容を示し、憐れんでくださった」と16節にありますが、主がそうしてくださるのは、テモテとわたしたちキリスト者が隣り人に対して良き証し人として生きるようになるためです。主なる神はいつまでもわたしたちに豊かな愛を注いでくださいます。この主の愛のうちに生かされ、喜びと平安と希望に満たされましょう。