賢者と愚者の見極め方

「賢者と愚者の見極め方」 十月第五主日礼拝 宣教 2023年10月29日

 コヘレトの言葉 10章1〜3、12〜15節     牧師 河野信一郎

おはようございます。早いもので、10月最後の日曜日の朝を迎えました。今朝も皆さんとご一緒に礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。今週水曜日から、もう11月ですね。大好きな金木犀の甘い香りもどこかへ消えてしまいました。教会の庭に金木犀の木を植えようと花屋さんやホームセンターを回ってみましたが、やはり苗木が出回る時期があるそうで、9月の終わり頃には売り切れてしまうそうで、とても勉強になりました。お目当てがなかったので、オリーブの苗木を代わりに1本購入しました。ただ、違うオリーブの木と一緒に植えないと実を結ばないそうなので、また花屋さんへ行く口実ができて感謝です。

 さて、メッセージに入る前に、今月の賛美としてささげている讃美歌とメッセージへの応答賛美としてささげている讃美歌について少しお話ししたいと思います。10月の讃美歌として選びましたのは、94番の「われらは主の民」という曲です。トーマス・A・ジャクソンというアメリカ人が歌詞をつけて、デイビッド・トラフォードというイギリス人が編曲しましたが、原曲はロシア民謡です。その事実を初めて知ったという方もおられると思います。

 何故この曲を今月の讃美歌に選んだのか。それは、神様を愛し、イエス様に仕えるクリスチャンがアメリカやイギリスや世界中に大勢生きているように、イエス様を救い主と信じるクリスチャンがロシアにも大勢いることを覚えたかったからです。憎むべき悪は確かに存在しますが、神様によって造られた愛すべき人々がロシアに、そしてウクライナに存在することを忘れてはならないと思います。また激しい空爆にさらされて逃げ場を失っているガザ地区の人々も神様の造られた尊い存在です。わたしたちは、互いが「主の民」であることを覚え、キリストを通して与えられる真の平和を祈り求め、平和をつくりだす主の道具として用いられるように祈る必要があります。今日、平和を願い、求め、祈る者とされましょう。

 さて、8月からコヘレトの言葉をずっと聴いています。今朝のメッセージは10回目となりますが、そのうちの5回の応答賛美に552番の「わたしが悩むときも」を選んでいます。選んでいるというよりも、コヘレトの言葉を通して神様が語りかけてくださる「今日を大切に生きよ!」という励ましに、この讃美歌でしか応答しようがないという思いに毎回されています。この讃美歌を手がけた作詞家と作曲家は二人ともスウェーデン人です。作詞は1866年にキャロライン・サンデルベルグという女性で、作曲は1872年にオスカー・アーンフェルトという有名な作曲家が手がけました。157年前にできた讃美です。キャロラインさんは、お父様が目の前で溺れて死ぬという惨劇を乗り越えてこの詩を綴りました。どのようなことがあっても神様がいつも自分と共にいてくださるという「確信」を詩にしたそうです。

 わたしたちの人生には、本当に様々なことが起こります。良い事と悪い事が交互に来ることもあれば、嬉しいことばかり続いて幸せの絶頂を味わうこともあり、病気や怪我や死別や失業を通してとても辛く苦しい事が続いて生きていても意味がないと失望する事もあります。

 コヘレトの言葉の第3章に、「生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、殺す時、癒す時、破壊する時、建てる時、泣く時、笑う時、嘆く時、踊る時、石を放つ時、石を集める時、抱擁の時、抱擁を遠ざけるとき、求める時、失う時、保つ時、放つ時、裂く時、縫う時、黙する時、語る時、愛する時、憎む時、戦いの時、平和の時」とあるように、色々な事が、季節が巡るように巡ってきます。わたしたちの人生は、一喜一憂の連続です。情況が変わるたびに喜んだり、悲しんだりして、心がなかなか落ち着きません。状況の中にある真実を見極めることが非常に難しく、悪いことが続くと心はカオスの状態になるからです。

 一つの例をスライドにしてみました。わたしたちの心は、写真のコップの中身のように様々な出来事や情報でかき乱されてカオスの状態になっています。日々の生活の中で様々な難題を抱え、人間関係も大変で、ストレスを感じることが多いのに、円安だぁ、物価上昇だぁ、年金問題で不安定な生活だぁと続き、テレビをつければウクライナ情勢、イスラエル軍による連日の激しいガザ地区空爆、ガザ地区で必死に生き延びようとしている人々の悲惨な様子が流れている。わたしたちの心は、荒れ狂ったカオスの状態になります。

 この状態を鎮静化させる唯一の方法は、「静まる」ことです。コップを乱暴にかき混ぜるのを止める。つまり雑多な情報を頭と心に入れるのを即時やめて、静かにするということです。しばらくそっとしておくと、混乱のもとになっていた物がすべて沈澱してゆき、まったく完全ではありませんが、水がクリアになります。つまり、この混沌とした状態を鎮めるためには、神様の御前に自分の身も心も置いて、静まって、神様の御声に、イエス様の言葉に耳と心を傾けて行かなければなりません。目の前がクリアにされないと、深刻な問題の先にある道筋を見ることはできないし、今後の方向性を見極めるのが難しくなります。

 さて、あまり関係性のない話をずっとしているとお感じになられているかもしれませんが、関係性はけっこうあります。コップの中にたくさんの無理難題をぶち込み、激しくかき混ぜるような非常に愚かな存在、「愚者」がいるからです。それが自分なのか、自分を取り巻く人なのか、それを見極めるためには、コヘレトの言葉とそれ以外の聖書箇所から知恵を受ける必要がありますので、それを目標に御言葉に聴いてゆきたいと思います。

 今朝のメインの聖書箇所は、コヘレトの言葉の第10章となりますが、この章全体は、賢者と愚者に関する格言集です。誰が神様の目に賢者であり、誰が愚者なのか、どのようにしてそれを見極めるのか、それが今朝のメッセージのテーマとなります。さて、「賢者」とは、神様の前に正しく、賢く生きる、知恵のある人であると箴言3章等に記されています。

 「愚者」とは、無知な人、つまり神様という存在を畏れず、まったく無視して、自由気ままに生きる人、愚かな人と聖書にあります。箴言6章6節では「怠け者」、同じ14章17節では「短気な者」とあり、エレミヤ書9章では「自分の力を誇る人」と記され、同じ4章22節では、「まことに、わたしの民は無知だ。わたしを知ろうともせず、愚かな子らで、分別がない。悪を行うことに聡く、善を行うことを知らない」という神様の言葉があります。

 賢者と愚者の性質にはそのような決定的な違いがありますが、コヘレトは2章16節で、「賢者も愚者も等しく死ぬとは何ということか」と嘆き、人生は空しく過ぎ去ると言っています。確かに、神様の前に正しく生きる人も、そうでない人も、この地上での生活に終わりが来ます。その部分だけを見ると虚しさを感じて当たり前です。しかし、これが「コヘレトの言葉」の限界なのです。知恵を持ってしてはその先の救い、希望が見つからないのです。

 この地上で命ある間、毎日をどんなに大切に生きても、どんなに良いことをしても、たくさんの富を築いても、すべて地上に置いて去らなければならない。築いた財産を子どもや誰かに残してゆくことになるけれども、「その者が(財産を管理できる力のある)賢者であるか愚者であるか、誰が知ろう。いずれにせよ、太陽の下でわたしが知力を尽くし、労苦した結果を支配するのは彼なのだ。これまた、空しい」と2章18節と19節で言っています。4章5節では、愚かな者は何も苦労せずに受けた財産を「食いつぶす」とあり、衝撃的です。

 「善人がその善のゆえに滅びることもあり、悪人がその悪のゆえに長らえることもある。善人すぎるな、賢すぎるな、どうして滅びてよかろう」と7章15節16節にありますが、人生には賢者が苦しみ、愚者が楽しむという不条理なことが起こります。しかし、コヘレトはもう一つの側面も知っています。8章12節に「罪を犯し百度も悪事をはたらいている者がなお長生きしている。にもかかわらず、わたしには分かっている。神を畏れる人は、畏れるからこそ幸福になり、悪人は神を畏れないから、長生きできず、影のようなもので、決して幸福になれない」とあります。これから先のことはわたしたちにはまったく分かりませんが、神という存在を畏れ敬い、この全能なる神様に信頼を置くことで希望を持つことができます。

 神様からいただいているこのわたしの命を喜び、感謝し、大切にすることが神様から求められています。同時に、すべての命を喜び、感謝し、大切にすることが神様から求められています。すべての命を大切に取り扱わなければなりませんが、賢者と愚者によってその取り扱い方がまったく違ってきます。そのことをご一緒に聴いてゆきたいと思います。

 まず10章1節に「死んだ蠅は香料作りの香油を腐らせ、臭くする。 僅かな愚行は知恵や名誉より高くつく」とあります。香油を作っている工程のどこかで、一匹のハエが入り込み、香油の中で死んでしまいました。早く気づいてそれを取り除かなければ、高価な香油は台無しになってしまいます。香油は、知恵や富や名誉を表し、死んだハエは愚かな行為を表しています。これくらいなら何も支障はないだろうという愚者は思い込み、その小さな油断、判断ミス、万引きや不正行為や不倫などがその人が一生かけて積み上げてきた良い働き、信頼関係を台無しにし、築き上げて来た富をゼロにしてしまうことがあるわけです。

 2節に「賢者の心は右へ、愚者の心は左へ」とありますが、どうぞ間違わないでください、これは今日で云う右派・保守派が賢者で、左派・リベラルが愚者であるという意味では決してありません。コヘレトの時代では一般的に、右が「吉・幸い」、左が「凶・災い」を指すと考えられていたことから、神を畏れる賢者には神様からの幸いが臨み、神を畏れない愚者には身から出る錆・災いが臨むという意味として捉えることがベストであると思います。

 3節に「愚者は道行くときすら愚かで だれにでも自分は愚者だと言いふらす」とありますが、道ゆく人が「自分は愚か者だ」と言いふらしている光景を見たことがありません。しかし、自分は賢い、最高の教育を受け、学位もあると言いふらす傲慢な人や「あの人は無学、無教養、無知だ」と他の人のことを思っていたり、口に出す人を知っています。しかし、そういう傲慢な人たちが注意散漫になり、思わぬ失態を犯したり、隠していた秘密が暴かれたりして失職したり、身を隠してしまう、そう云う政治家や芸能人など知っているでしょう。わたしたちに大切なのは、いつも謙遜に生きることです、それ以外にありません。

 12節に「賢者の口の言葉は恵み。 愚者の唇は彼自身を呑み込む」とあります。賢者の言葉は周りの人を慰めたり、励ましたり、祝福する力です。しかし、愚者は自分の言葉で墓穴を掘ります。自分の口から出る言葉で何度も失敗を繰り返し、人に心配や迷惑をかけます。愚者は口数が多いと14節にありますが、自分のことしか考えていない人は、無駄なことをしゃべりすぎるのです。無駄なこととは何でしょうか。それは「未来のことはだれにも分からない。自分がこれから行く道さえ知らない」のに、これから先どうなるだろうか、老後はどうなるだろうか、死後どうなるだろうかと取り越し苦労なことばかりしゃべりすぎて、人々から胡散臭く思われたり、うんざりだと思われたりするのです。愚者は大切な時間を無駄に過ごし、周りの人たちを疲れさせ、自分も疲れてしまうと云うことが15節に記されています。

 では、わたしたちに大切なことは何でしょうか。旧約聖書から一つ、新約聖書から一つの聖句を読ませていただきたいと思います。一つは詩編90編12節(旧約p929)です。わたしの「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように」という言葉です。口語訳聖書では、「われらにおのが日を数えることを教えて、知恵の心を得させてくださり」と訳されていますが、神様から与えられてきた年月ではなく、残されている日々を神様に委ね、感謝して大切に生きられるように、何よりも神様の御心を知って、御心のままに生きられるように憐れんでくださいという願いのように聞こえてきます。

 もう一つは、エフェソの信徒への手紙5章15節から20節(新約p358)です。「愚かな者としてではなく、賢い者として、細かく気を配って歩みなさい。時をよく用いなさい。今は悪い時代なのです。だから、無分別な者とならず、主の御心が何であるかを悟りなさい。酒に酔いしれてはなりません。それは身を持ち崩すもとです。むしろ、霊に満たされ、詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。そして、いつも、あらゆることについて、わたしたちの主イエス・キリストの名により、父である神に感謝しなさい」とあります。

 誰が賢者で、誰が愚者かを見極める必要はありません。自分は賢者だと誇ってもなりません。主なる神様がわたしたちをご覧になっておられる事、この神様がわたしたちを賢者か、愚者かを判断されるのです。大切なのは、わたしの心から、口から恵みの言葉、感謝と賛美が出ているかと云う事です。