「あなたの怒りを聖霊に委ねなさい」 六月第二主日礼拝 宣教 2023年6月11日
エフェソの信徒への手紙 4章25〜27節、30〜32節 牧師 河野信一郎
おはようございます。雨の中ですが、今朝も皆さんとご一緒に賛美と礼拝をおささげできる幸いを神様に感謝いたします。今朝は、様々な事情で礼拝をお休みの方が多いですが、この礼拝堂に集められた皆さん、オンラインで出席くださっている皆さんを心から歓迎します。
今朝は、メッセージに入る前に、いくつかご報告とアナウンスがあります。まず去る9日に手術を受けられましたKT兄ですが、内視鏡による手術は無事終わり、明日頃には退院ができるであろうとA姉がお電話で言っておられました。入院も手術も、85歳にして人生初ということで驚きましたが、今まで健康体であられた小柳兄の上に神様の御手が置かれ、完全に癒やされ、速やかに回復しますよう、引き続きお祈りいただきたいと思います。
さて、先週もアナウンスいたしましたが、来週18日から教会でのマスク着用は個人の判断となります。しかしコロナウイルスが完全に消え去ったわけではありませんので、ご高齢の方々やお身体の弱い方々への配慮を心がけながら、教会生活を共に歩んでまいりましょう。
次に、今月25日の主日礼拝ではCSB宣教師がアメリカ帰国前にメッセージをしてくださいます。礼拝の後には、B宣教師ご夫妻を囲んで、ささやかな感謝会を開きますので、どうぞご予定に入れてご出席ください。この大久保教会を愛し、わたしたちと共に12年間も歩んでくださり、教会の働きを支えてくださったご夫妻に感謝を表したいと思います。
神様は本当に素晴らしいお方です。わたしたちの教会をさらに祝福しようと、同じ25日の礼拝に、ビオラ奏者のHJさんとチェロ奏者のHMさん兄妹という素晴らしい音楽家たちをアメリカから送ってくださいます。昨年は別々の礼拝で賛美をささげてくださいましたが、今回は一緒に来てくださり、ビオラとチェロによる特別賛美をささげてくださいます。今から楽しみにしてくださり、ぜひ25日の主日は大久保教会で礼拝をおささげください。
さて、最後にもう一つお知らせです。ここ数年間、わたしは旧約聖書から一つの書物を選び、12回ぐらいのシリーズでメッセージをしてまいりました。2021年はネヘミヤ記、2022年はヨナ書をご一緒に聴きましたが、2023年はコヘレトの言葉(伝道者の書)へと導かれ、先週からその準備を始めました。少し先ですが、7月23日の主日から10月29日までの約3ヶ月半、12回にわたって、朝の礼拝でメッセージをする予定です。テーマはまだ確定はしておりませんが、たぶん「生きる」ということがテーマになるかと思います。人生にどのような事があっても、神様のご臨在の中で、神様の愛によって生かされていることを喜び、感謝へと導くメッセージになるように、聖霊が豊かに導いてくださるようにお祈りください。
さて、今朝のメッセージのテーマは、「怒り」です。「怒り」。皆さんは、今、何かしらの怒りを心の中に抱いておられるでしょうか。様々なことに怒りを覚えます。対人関係における怒りもあるでしょうし、自分よりももっと大きな力に対して怒りを覚えることもあるでしょう。例えば、ウクライナ南部のヘルソン州にある巨大ダムが決壊し、大洪水をもたらし、周辺に生きる人々の生活を奪った責任は誰にあるのか。また、厄介な難民をできるだけ簡単に排除しようとする入管難民法の改正を強行採択した日本政府など、怒りを抱くことは数多くあります。小さな怒り、大きな怒り、単純な怒り、複雑な怒り、様々あります。皆さんは、ご自分が時折抱く「怒り」に対して、どのような対処法をお持ちでしょうか。
先々週と先週、沸々とした怒りを心の内に持った二人の方から教会に電話があり、その方々のために時間を割き、忍耐と祈りをもって向き合わなければなりませんでした。ご安心ください、教会に来られている方々ではありません。相談したくて、電話をくださった方々でした。どちらも対人関係における怒りを抱く方々でした。その前の週でしょうか、娘との会話の中で、「対人関係において最近イラっとすることが多いよね」という話をしていましたが、実にタイムリーな電話でしたので、これも聖霊の導きなのかなぁと思いました。
さて、「怒り」と言っても、怒ることがすべて悪いという訳ではありません。まったくの正義感から来る「正しい怒り」もあります。つまり、間違ったことが目の前で行われていると、その問題を正さなければならないという健康的な動機から怒りを抱くこともある訳です。その怒りが動機となって、力となって、問題を正す働きになることもあるのです。ですから、いつもわたしたちが気を付けなければならないのは、エフェソ書4章26節にあるように、「怒ることがあっても、罪を犯してはならない」ということです。
では、わたしたちが日頃から抱く怒りや不満の原因は何でしょうか。多くの場合、自分の思い通りにならない、期待通りに物事が進まないということにあるように思います。不利益を被る可能性が高いと感じる恐れを抱く中でフラストレーションが溜まり、それが怒りという感情で爆発してしまうということもあります。
今回の電話の相手二人の話を聞いていて、そのように感じました。自分の思い通りにならないから怒る。そして、自分の怒りを正当化しようと教会に電話してこられたのだなぁと感じ、そのような中で、怒りの原因がもう二つあるように感じました。一つは、相手の方から自分のほうへ歩み寄ることを期待してしまうということです。つまり自分は被害者で、相手が加害者であると思い込み、加害者が自分のほうへ低姿勢で歩み寄ることを待ち続ける。しかし、待っても、待っても来ない。だから、怒りを感じるという具合です。
もう一つの原因として考えられるのは、相手の気持ちを確かめることを怠り、憶測だけで問題を大きくし、深刻化させてしまうということがあると感じました。つまり、真実を確かめ、真実を知ることが恐ろしいのです。その理由は、自分にとって不都合・不利益な真実であれば歓迎できないからです。ですから、真実を知ることを先延ばしにしてしまうので、不安や恐れで心が一杯になり、ストレスがフラストレーションを誘発し、それが怒りへと発展して、どこかで爆発する。そのようなご経験、皆さんにはないでしょうか。わたしたちの多くは、本当に重要なことには何故か無関心で、どうでも良いことにこだわりを持つということがあります。自分の命と生活には大いに関心を持つのに、他人の命と生活にはまったく関心を寄せない。そういう身勝手さがわたしたちにはあるのではないでしょうか。
さて、ペンテコステを覚える中で、ここ数週間のメッセージは、聖霊の働きについて御言葉の分かち合いをしてきました。今朝のメッセージもその流れです。メッセージのタイトルも、「あなたの怒りを聖霊に委ねなさい」としました。多くの場合、「あなたの怒りを神に委ねなさい」というタイトルの方が一般的だと思います。確かに、わたしたちの怒りを真っ先に神様にお委ねすることは懸命で最善な判断です。今回、「怒りを聖霊に委ねなさい」とあえてしたのは、そちらの方がより実践的(プラクティカル)だと感じたからです。
ガラテヤ書5章22節から23節に、わたしたちが聖霊の助けを受けて結べる実が9つあると記されていますが、その中に「節制」とい実があります。すなわち、自分の怒りをコントロールできるようにわたしたちを助けてくださるのは聖霊であるということです。
わたしたちの怒りという感情が正義と平和をもたらす道具として用いられずに、罪に変わってしまう残念な要素はなんでしょうか。一言で言うならば、それはプライドです。プライドを持っているということは決して悪いことではありません。しかし、時にそのプライドが問題を抱える相手を見下し、自分の考え、価値観を正当化し、それを相手に押し付けて苦しみを与えることになりかねない。プライドが自分は正しい、相手が間違っているという思い込みを持たせ、絶対に譲らないと言う弊害をもたらしてしまう。プライドが怒りを拡大させてしまうこともあるのです。ですから、わたしたちに高ぶりを捨てさせ、謙遜さを与え、寛容さを与えてくださるのは聖霊であり、その聖霊に委ねることが大切なのです。
怒りを覚えるのは、自分の願い通りにならないと感じる時だと申しましたが、わたしたちの人生の中で、思い通りになることよりも、思い通りにならないことのほうが多いのではないでしょうか。わたしたちにとって不都合なこと、不利益なことも次々と起こります。その原因がわたしたちにあることは棚に上げて、怒りや不満を抱いてしまう弱さがわたしたちにあります。しかし、すべてのことを、万事を益としてくださるために働いてくださるのも聖霊です。ですから、わたしたちの怒りを聖霊に委ねる時、怒りをコントロールし、自分の思いではなく、神様の御心を求める力、祈る力、主の導きに従う力、忍耐する力が聖霊を通して与えられることを信じることが大切で、そのように信じる力も聖霊が与えてくださいます。
今朝、わたしは難しいことを皆さんと分かち合っているでしょうか。皆さんがよく理解できるように聖霊の助けを祈り求めながらお話ししていますが、わたしたちが聖霊の助けの中で怒りから解放され、平安のうちに生きる方法を聖書から聞いてゆきたいと思いますが、今朝導かれている聖書はエフェソ書の4章25節から27節、30節から32節です。わたしたちが対人関係の中で怒りを抱かずに、コミュニケーションをうまく取る方法がいくつかありますので、それを聖書から聞いてゆきたいと思います。
まず25節に、「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい」とあります。偽りを捨てるとは正直に、誠意をもって人と向き合うということです。一緒に問題に取り組み、解決するように向き合ってゆくのです。わたしたちは相手の心を読むことはできません。ですから愛と忍耐とをもってまず自分の真意を伝え、相手の気持ちを理解しようと歩み寄ることが重要になります。そのために必要な愛も、忍耐も、聖霊の助けの中で結べる霊の実です。
二つ目は、26節の後半に、「日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません」ということです。何故でしょうか。問題を先延ばしにすることは、27節にあるように「悪魔にすきを与える」ことになるからです。先延ばしにすればするほど、悪い方向へ考えてしまったり、自分の都合の良いように解釈してしまう事があります。それが悪魔に隙を与え、混乱し、怒りが倍増してしまうことが起こり得るからです。悩みや不満が大きくなりすぎて怒りとなり、それがコントロールできなくなるまで放置しておくと、怒りが罪に変わってしまいます。何も良いことはありません。反対に、30節ですが、「聖霊を悲しませてしまう」ことになります。聖霊に委ねずに、自分の知恵や力でなんとかしようとあがいてしまっているからです。
三つ目は31節です。「無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい」とあります。わたしたちが直視すべきは怒りの原因である「問題」であって、相手ではありません。怒りの対象は問題であって、人ではありません。ですから、相手に対しては、愛と寛容さをもって接してゆかなければなりません。人に対して憤りを感じ、怒り、声を荒げるのではなく、愛と忍耐を持って、いつも優しい言葉を相手にかけてゆくように、聖霊の助けを常に求める必要がわたしたちにはあります。愛を聖霊に求めるのです。
四つ目の重要なことが32節に記されています。「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」とあります。わたしたちが心に抱く無慈悲、憤り、怒り、わめき等は問題に対する反応・リアクションの感情です。怒ったらすぐに反応しないで、心の中で10秒数えなさいとよく言われます。その10秒が冷静になる時間と考えられています。しかし、それは聖霊の力が働く時間であり、聖霊によって心が憐れみ、寛容、親切な思いに変えられる時間となります。問題が大きければもっと時間が必要でしょう。大切なのは、祈りの中で、聖霊に助けられて、自分がキリストを通して神様に罪赦されている存在であることに気付かされることです。怒りではなく、神様の愛を感じさせ、平安を与えてくださる聖霊にいつも委ねて、歩んでまいりましょう。