ルカ(81) 弟子として生きる喜びを失うなというイエス

ルカによる福音書14章34〜35節

今回の箇所は、前回学んだ14章25節から33節に関連しており、関連しているからこそ意味が生まれてきますので、前回の振り返りをまずしたいと思います。前回の学びでは、イエス様の後についてきた大勢の群衆に対して、弟子としてイエス様に従うためには大きな犠牲と一代決心が伴うことを話され、その上で二つの譬えを通して大切なことを教えられたイエス様の言葉に聞きました。

 

イエス様の弟子として歩む「覚悟」については、すでに9章57節から62節にも記され、その時に聞きました。「大勢の群衆が一緒について来た」という「ついて来る」とは、ユダヤ教の教師・ラビに弟子入りする時の用語でありますが、ラビの弟子になるとは、ラビのようになる、つまりラビの人格に近づくことが目的ではありません。ラビから教えられることを「憶える」ためです。つまりラビの教えを憶えて、充分に受ければ、弟子自身もラビになり、師匠のラビから独立して、弟子をとって教える立場になる訳です。

 

しかし、イエス様の弟子になるとは、そういう関係性ではなく、イエス様の言葉・教えを心に刻んで、イエス様のようになっていくということです。イエス様の教えを充分憶えたからと言って、イエス様から独立するということはありません。イエス様の弟子となるとは、ずっと、永遠に、イエス様を生活の中心に置くということです。つまり、イエス様を中心にずっと生きるということです。ですから、弟子となるためには相当な覚悟が必要だとイエス様はおっしゃるのです。生半可な思いではなれないと言われるのです。

 

イエス様は、弟子となる条件を群衆に平等に示します。そこには、えこひいきなど一切ありません。みんなが弟子となるように招かれていますが、イエス様に従うことは簡単なことではありません。イエス様の招きに応えることに、迷いが生じることはあってはならないのですが、イエス様は「わたしがあなたを弟子とする」といつも助けてくださる約束をして、その約束を守ってくださっています。しかし、そもそも何故イエス様はそのような厳しいことをあえておっしゃったのでしょうか。そこがまず問わなければならないと思います。

 

その理由として、ある注解書に「イエスは群衆たちをふるいにかけたのだ」とありました。本気でイエスに従おうという人たちと、カジュアルな気持ち(興味本位、あるいはほんの軽い気持ち)で従おうした人たちをふるいにかけて分けることをしたというのです。甘い言葉で招くのではなく、弟子となる覚悟が必要と最初から厳しく言われます。

 

ある牧師の説教集には、「イエスはエルサレムへの道、十字架の道を歩んでいたわけだが、群衆はイエスのそのような目的を知らずに、『このイエスに従って行けば、神の国がすぐに現れて自分は救われるかもしれない』という甘い予想・淡い期待をもってついてきて、そのような甘い考えを砕くためにイエスは弟子になるあえて厳しい条件をおっしゃった」と記されていました。本当にそうかもしれません。甘い言葉は甘い考えを抱かせ、厳しい言葉は確固たる覚悟を抱かせます。甘い誘いは後々痛い目に合わせることが大半ですが、厳しい言葉は聞く人の人生を祝福し続けます。甘い言葉は惑わしで、厳しい言葉は真実であります。

 

イエス様は、ついて来る群衆に、イエス様についていくことの本当の意味をはっきりと示します。親や兄弟や家族といった骨肉の縁よりも、また自分よりもイエス様を大切に、第一にすべきであると言われます。それは何故でしょうか。その理由は、自分を救う力は自分にも、家族にもなく、唯一イエス様にしかないからです。この方を救い主と信じて、日々従うしか、神の国に行ける道はないからです。神の国で、神の祝宴に招かれて、永遠にそこで生きる恵みの中に置かれたいならば、地上のものに固執することを一切やめて、イエス様に従うことが魂の救いにつながるのです。

 

自分の命や大切な家族との関係性を大切にするよりも、イエス様を大切に、第一に据えるということは、それ自体が「大きな十字架を背負う」ということになるでしょう。しかし、イエス様は「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」と群衆に向かって言われます。

 

イエス様に従うとは、イエス様の受難と死を共に担うということをイエス様は言っておられます。ですから、先ほど引用しました、「『このイエスに従って行けば、神の国がすぐに現れて自分は救われるかもしれない』という甘い予想・淡い期待をもっていて、そのような甘い考えを砕くためにイエスは弟子になる厳しい条件をおっしゃった」、という理解が導き出されて行くわけです。

 

28節から30節では、ある人が塔を建てる譬えが語られています。他の訳では「家」となっていますが、どちらにせよ建てるにはお金がかかります。同じように、イエス様に従うにも、犠牲を払っていく必要があり、充分な覚悟と決心が必要であるということを言っています。それはつまり、イエス様に従うことに覚悟があるか否かを自分に問うてゆくことになります。途中でやめてしまうかもしれないと云うような軽い気持ちであれば、最初からやめておいた方が良いかもしれない。しかし、イエス様はそれでもイエス様に従おうとする者を憐れみ、助け、守り、導いてくださるのです。

 

31節から33節には、1万の兵で2万の軍を迎え撃つ時にも余程の覚悟が必要であることが言われていますが、「敵がまだ遠方にいる間に」とありますので、この戦争はすでに始まっていると云うことが想定されています。だからと言って、勝つ見込みがないのであれば、自国民の命を守るために和平交渉をする以外に方法はありません。しかし、敵が圧倒的に強い場合、和平交渉は弱い側の無条件降伏を意味し、その国の王は死を覚悟しなければなりません。自国民の命を救うために、自分の命を捨てる覚悟が必要だとイエス様はおっしゃっておられるのです。

 

同様に、イエス様の弟子として生きるのには、まず命を、そしてすべてを捨てる覚悟が必要になります。ですからイエス様は、33節で「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」と群衆に語り、それぞれの心のあり方、身の振り方を選ぶように促すのです。

 

その後、イエス様は、「確かに塩は良いものだ。だが、塩も塩気がなくなれば、その塩は何によって味が付けられようか。畑にも肥料にも、役立たず、外に投げ捨てられるだけだ。聞く耳のある者は聞きなさい。」と言われます。イエス様がここで言っておられるのは、強い決意をもってイエス様に従うことが最初はできても、その後に自分の力だけに頼っていては、サタンの誘惑、攻撃、心の揺さぶりなどを受ける中で、イエス様に従う意味、意義、目的を見失ってしまい、イエス様から離れることになると云う警告です。最初は熱心に教会に通って礼拝をささげ、交わりをしていても、あることがきっかけで人間関係につまずいたり、ストレスを感じたり、虚しさを感じる時、イエス様に従う熱意・情熱が消えてしまって、イエス様に従うことをやめてしまうことになるという警告です。

 

塩の役目は、食べ物に味をつけてその素材を美味しくさせることです。料理にインパクト・影響を与えることが役目です。同様に、イエス様の弟子というのは、人間関係の中で神様の愛を分かち合うことで人々に良い影響、良いインパクトを与えるのが役目です。

 

それを見失ってしまっては、弟子の役目が果たせません。塩は、その塩気をもって人の味覚に喜びを与えます。イエス様の弟子も、出会ってゆく人々に喜びを分かち、共に喜ぶために存在します。塩の味気がなくなれば、役に立たないものになるとイエス様はおっしゃいますが、それは同時に、弟子としての役割を失えば、弟子して役に立たなくなってしまうということになります。

 

そのような役に立たない塩はどうなってしまうでしょうか。「外に投げ捨てられるだけだ」とあります。非常に厳しい言葉に聞こえます。神の国から出されるということです。これはイエス様からの警告として理解する必要があります。「聞く耳のある人は聞きなさい」という言葉も、その警告の一部であります。

 

イエス様の言われる塩とは、岩塩です。日本では岩塩は取れず、海塩のみだそうです。その塩にはカーナライトという成分があるそうで、そのカーナライトという成分が多すぎると塩味を失わせるそうです。他の書物を見ると、塩はナトリウムイオンと塩化物イオンによって構成され、ナトリウムが少ないとその他のミネラル成分が複雑な味わいになるそうです。

 

つまり、イエス様は次のようなことをおっしゃっているのではないかと思います。弟子たちの心の中にイエス様を愛する思いよりも、自分を愛する思いに比重が置かれると、自分を喜ばせようという思いが強くなって、イエス様が二の次、三の次になってしまい、徐々にイエス様から心が離れていってしまうということではないかと思います。だから、イエス様は、わたしにつながり続けなさい、わたしから目を逸らすな、わたしの声に聞きなさい、わたしを通して神のみ言葉に聞きなさいということをイエス様は警告されているのではないでしょうか。

 

弟子の塩気とはいったい何でしょうか。それは、イエス様を通して神様に愛され、罪赦され、日々神様の恵みの中に生かされていることを喜ぶということ、神様の憐れみと慈しみに対していつも喜び、感謝することではないでしょうか。神様に愛されていることを知らない、見失った者が、闇の中を彷徨っている者が、イエス様によって探し出されてゆく、見出されてゆく、神様のもと・光の中に戻されてゆく、それが次の15章にある大きなテーマにつながってゆくのではないかと感じます。