「祈りをもって祝福し続ける」 七月第二主日礼拝 宣教 2023年7月9日
民数記 6章22〜27節、エフェソ書6章18節 牧師 河野信一郎
おはようございます。今朝も皆さんとご一緒に賛美と礼拝をおささげすることができて感謝です。今朝も神様からの語りかけに耳を傾けて聴いてまいりたいと思いますが、今朝のメッセージのテーマは、聖書箇所はまったく異なりますが、先週のメッセージの続きとなります。先週のメッセージを聞き逃された方、もう一度お読みになられたい方は、教会ホームページにありますので、お読みいただければと思います。
さて、先週のメッセージでは、すべての人々の祝福の基として用いるためにアブラムを招かれた神様とその招きに応えたアブラムの信仰について聴きました。アブラムの信仰を通して、「神様から祝福を受けている者は、何歳になっても家族や隣人を祝福し続ける者であり、周囲の人々を祝福することが神様から託された使命である」ということを聴きました。
神様の招きに応えて約束の地へ歩み出した時のアブラムの年齢は75歳でした。しかし、その後のアブラムの人生は、神様に祝福され続けた175年の生涯でした。人生に100年のさらなる上乗せ、凄いなあとお感じになられる方もおられるでしょう。しかし、イエス・キリストを通して神様の祝福へ招かれ、その道を歩む人たちの人生は、100年200年どころではない、永遠の命、永遠の祝福がイエス・キリストの御名によって固く約束されているのです。
多くの人々は、この地上にだけ限定された祝福、富や地位や名声や平安を求めてひたすら頑張って生きます。しかし、この世を去る時には、それらすべてを残して行かなければなりません。ですから、永遠に続く祝福を求めて行くことが大切であって、その永遠の祝福へ招くために、神様はイエス・キリストという救い主をお遣わしになり、わたしたちを地上のものに縛り付けている罪から解放するために罪の代償を十字架上で支払ってくださいました。イエス様の十字架に神様の愛が表れています。それが今夜の夕礼拝でのメッセージのテーマです。夕礼拝にもぜひご出席ください。ご一緒に賛美をささげ、御言葉に耳を傾けましょう。
さて、先週のメッセージを聞かれた方の中には、メッセージがストンと心に落ちなかったと言いましょうか、腑に落ちなかったという方もおられたのではないでしょうか。ある方から、何歳になっても人々を祝福し続けなさいという招きは大変感謝で、嬉しかったけれど、祝福する方法をもう少し具体的に教えて欲しいとの要請が後日ありました。そのような要請を受けることは、その日のメッセージを聞いてくださっていた確固たる証拠です。わたしはたいへん嬉しく思いました。そのようなメッセージへの応答を聞いて、「凄いなぁ」と感動し、「確かにそうだろうなぁ」と反省の思いにさせられました。何歳になっても、家族や友人知人や日々出会ってゆく人たちを、可能な限り祝福し続けたい、神様の祝福を分かち合う者として生きてゆきたいと強く願われている。その強い思い、本当に凄いと思いました。
どちらかというと、多くの人は誰かを祝福したいと思うよりも、自分が祝福されたいと思うほうが多いのではないでしょうか。しかし、誰かから祝福されるよりも、誰かを祝福するほうが遥かに尊く、それが神様の御心なのです。「受けるよりも、与えるほうが幸いです」とイエス様はおっしゃいました。また、「わたしは仕えられるために来たのではなく、仕えるために来た。誰でも人に仕えられたいと願うなら、最初にあなたが人に仕えなさい」ともおっしゃいました。自分が祝福されるよりも、誰かを祝福することを常に求めることの幸い、そのことを幸いと思え、祝福するバイタリティーが湧き出てくるのは、神様の愛によってまずわたしたちが祝福され、その素晴らしい祝福に満たされているからです。
また、誰かを祝福したいという気持ちに年齢や性別、社会的地位や富など関係ありません。多くの人は勘違いをしています。すなわち、祝福するとは相手が喜ぶ物をあげるとか、美味しいものを食べたり、飲んだり、至福の時間を過ごすとか、どこか旅行に連れて行ってあげるとか、すべてお金で解決できるものではありません。お金以上に大切なものを用いて祝福してゆく、それが心から祝福するということだと思います。
先日、我が家で誕生日を迎えた人がいました。早いもので22歳になりました。神様と教会の皆さんに愛されて、これまで成長してきたわけですが、大学4年生となって、学業とアルバイトに忙しくしています。この家族を祝福するために、他の姉弟たちはアルバイトを入れず、母親と一緒に美味しい夕食や誕生ケーキを準備してくれました。顔を合わせるといつも口喧嘩や小競り合いをしていますが、お互いのことを大切に思っています。幸せなことだと神様に感謝しています。祝福するとは、自分の都合はさておき、自分の時間や能力を相手に贈ることだと思います。つまり、心をプレゼントすることだと思います。自分の時間や能力や心、愛を結集させてプレゼントする最高の方法が、「祝福の祈り」であると思います。
さて、少し横道に脱線してしまいますが、とてもおもしろくて、興味深い話を数週間前に耳にしましたので、皆さんとぜひ分かち合いたいと思っていました。あるクリスチャンの方に友人から入院したというメールかLINEが入ったそうです。ですので、このクリスチャンの方はすぐに、「ご快復をお祈りしています」と返信したそうですが、すぐに「キリスト教式に祈らないでね」と釘を刺されるような返信があったそうで、非常に戸惑ったそうです。
わたしもそれを聞いて驚きました。友人や知人が何かのご病気で入院し、手術を受け、リハビリなどをしている時に、そのことを覚えて神様に癒しとお守りと回復を祈るのがクリスチャンの働きだと思うのですが、祈ってあげたい人から「キリスト教式で祈らないでね」と言われたら、皆さんはどのような思いを抱かれるでしょうか。その人は、闘病中の友人はもしかしたらメンタルが少し弱くなっているのかもしれないと思い、今は静かにさせておいたほうが良いという判断で、「分かりました」とだけ返信したそうです。
皆さんが誰かのために祈ろうと決めた時、その人から「キリスト教式で祈らないでね」と言われたら、どうなされるでしょうか。そう言われたからと言って、寺の墓や仏壇に向かって手を合わせて、先祖にその人の回復を祈るべきでしょうか。厄払いの祈りをしてもらうためにどこか有名な神社に行って祈ってもらうべきでしょうか。「どうされるか」と言われても思いつく方法は多分一つしかないと思います。キリスト教式で神様に祈るしかありません。自分の心と時間と思いを神様に集中させて、救い主イエス・キリストの御名によって神様に祈るしか方法はありません。他に方法はあるでしょうか。
相手の気持ちを尊重するよりも、その人に命を与えてくださっている神様、祝福の源である神様に祈ることがベストで最善の道ではないでしょうか。わたしはそう思います。キリスト教の祈りは、いつどこで何をしていても、すぐに神様へ向かって祈れます。言葉が多くて長い祈りが良いわけではなく、言葉数少ない短い祈りであっても、それは神様への祈りです。大切なのは、執りなしをしてくださる救い主イエス様の御名によって祈ることです。
わたしたちは、何歳になっても人々を祝福できます。何歳になっても、祈りをもって人々を祝福することができます。祈ること以外のことができなくなっても、神様に祝福を求めて祈ることが人々への祝福であることを今朝皆さんとご一緒に覚えたいことです。家族や友人知人のために祝福を祈ることは当たり前のようにしておられると思います。同僚や親交を持っている人たちのために祈ることもされていると思います。日本のために、世界のために、平和のために、祈っておられると思います。しかし、わたしたちは、主なる神様に本当に何を求めて祈るべきなのでしょうか。祝福とはいったい何なのでしょうか。
今朝、わたしたちが共に聴くべき言葉として二つの御言葉が与えられています。一つは、旧約聖書の民数記6章22節から27節まで。もう一つは、新約聖書のエフェソの信徒への手紙6章18節です。どちらも祝福の祈りを励ます御言葉としてよく知られている箇所ですが、わたしたちが神様に祈り求める祝福とは何であるのかを聴いてゆきたいと思います。
まず民数記6章22節から27節までの箇所を見ますと、新共同訳聖書には「祭司による祝福」という小見出しがついています。とある教会では、「アロンの祝福」とも呼ばれていますが、アロンとはモーセの兄で神様の前に祭儀を行う祭司の長であった人です。まず22節と23節を読みます。「主はモーセに仰せになった。アロンとその子らに言いなさい。あなたたちはイスラエルの人々を祝福して、次のように言いなさい。」とあります。
旧約聖書の時代、祝福の祈りをするのは祭司たちの役目でしたが、イエス・キリストによる新約の時代では、イエス様を救い主と信じるすべての人々、わたしたちに祝福を祈る役目が与えられています。祝福を神様に祈るのはわたしたちですが、その祝福を実現し、祝福を与えてくださるのは、主なる神様であることを覚えたいと思います。
神様は、すべての人を祝福したいという、とても強い意志を持たれたお方ですので、以下のように人々の祝福を祈りなさいと示されます。まず24節をご覧ください。「主があなたを祝福し、あなたを守られるように」と祈りなさいとあります。ここでも祝福の源は神様であることが最初に信じられています。そして痛みや悲しみや苦しみと云った試みの中にあっても、わたしたちの命と心を守ってくださるのは神様であり、その神様が必ず守ってくださると信じなさいという励ます言葉があります。祝福の言葉とは、人を絶えず励ます言葉であり、神様の愛に根差した言葉であるということを覚えて祝福を祈りましょう。
25節に「主が御顔を向けてあなたを照らし あなたに恵みを与えられるように」と祈りなさいとあります。罪を犯して神様に背を向けている人々に対して、神様のほうから御顔を向け、闇の中に光を放ってわたしたちを照らしてくださり、恵みを豊かに与えてくださる。それが神様の愛であり、神の本質です。わたしたちに救いという恵みを与えるために、神様は御子イエス様を地上へ遣わしてくださいました。それは、御子を信じるものが一人も滅びないで、永遠の命、永遠の祝福を得させるためでした。人のために祈る祝福の祈りは、神様の愛とイエス様を伝える力を与えてくれます。そのことを覚えて祈り続けましょう。
26節には、「主が御顔をあなたに向けてあなたに平安を賜るように」と祈りなさいとあります。「主が御顔をあなたに向けて」くださるとは、どういう意味でしょうか。詩編25篇16節では、ダビデが「主よ、御顔を向けて、わたしを憐んでください」と叫んでいます。ダビデは神様に対してどのような間違いを犯したのでしょうか。わたしたちも同じように、罪を犯し、罪の中に生きて来て、苦しみ悶えています。その苦しみが大きすぎて神様が他に御顔を向けて自分のことを忘れているように感じて叫ぶことがあります。
しかし、神様はそのようなわたしたちを憐んでくださり、神様との平安・平和を与えるためにイエス様を救い主として遣わし、イエス様の十字架上の犠牲によってわたしたちの罪を帳消しにしてくださり、神様との平和に生きる者としてくださっています。祝福の祈りを神様にささげるということは、神様の憐れみを求めて祈ることであります。神様の愛と憐れみを必要としない人はいません。わたしたちに重要なことが27節にあり、「彼らがわたしの名をイスラエルの人々の上に置くとき、わたしは彼らを祝福するであろう」とあります。わたしたちが日々なすべき祝福の祈り、執りなしの祈りと言っても良いと思いますが、大切なのは、わたしたちの大切な人々が祝福の源である主なる神様を認め、罪を悔い改めて神様に立ち返り、神様の御言葉に日々聞き従うように神様に憐れみと励ましと導きを祈ることです。
教会のためにも祝福を祈り求める必要がわたしたちにはあります。エフェソ書6章18節に、「どのような時にも、“霊”に助けられて祈り、願い求め、すべての聖なる者たちのために、絶えず目を覚まして根気よく祈り続けなさい」とあります。信仰生活、教会生活、いつも順風満帆という訳ではありません。嵐の中に、試みの中に置かれることもあります。そういう時に、互いに愛し合い、励まし合い、慰め合い、共に主を見上げて歩むためにも、聖霊に満たされて祝福の祈りをすることが教会の力、柱となります。お互いのことをいつも覚え合う、祈り合う、それが愛し合い、助け合い、共に生きるということではないでしょうか。