限定された命を喜ぶ

「限定された命を喜ぶ」 九月第四主日礼拝 宣教 2023年9月24日

 コヘレトの言葉 6章6〜9節     牧師 河野信一郎

おはようございます。9月最後の日曜日の朝を迎えました。今朝もこの礼拝堂に集められ、皆さんとご一緒に賛美と礼拝を神様におささげできる幸いを主に感謝いたします。2023年、残すところ3ヶ月です。2023年度も、残すところ半年です。あっという間に時間が過ぎ、一日、一週間、1ヶ月が瞬く間に過ぎてゆきますが、日曜日ごとに神様の御前で立ち止まり、大きく深呼吸をし、主の語りかけに耳を傾け、今日から始まる一日一日を大切に過ごしてゆきたいと願います。年間標語、年間聖句を再確認し、神様の愛を身に着けて、愛し合い、仕え合って、共に歩んでゆきたいと願います。10月から12月にかけて少しずつ忙しくなりますので、お祈りとご協力をどうぞよろしくお願いいたします。

 さて、先週は教会から派遣されて、成田空港近くにあるT教会を訪問してきました。最寄りの駅から車で20分、バスも1時間に数本しか運行していない、車がなければ集えない土地柄の教会でしたが、元気な子どもたちや教会の皆さんに迎えていただき感謝でした。礼拝には、ペルーやスリランカなどから仕事で来られているクリスチャンの方々が友達を誘って出席されていて、国際色豊かな教会でした。40代前半のT牧師ご夫妻が一生懸命に頑張っておられる様子を見て、20数年前の自分と重ねてしまい、心の中で「頑張れ!」と声援を送りつつ、「あまり無理するな」と叫んでいる自分がいましたが、懇談会後にその気持ちを実際にお伝えして励ましました。若い牧師たちとその家族のために祈り、励ましてゆく責任がわたしにはあるように強く感じました。大久保教会から送り出されたことを感謝しました。

 礼拝の中で、メッセージの前に5分間の「換気の時間」がありました。週報のプログラムにも記されていなかったので最初驚きましたが、讃美歌のC Dが静かに流されました。この時間帯、何をしたら良いのだろうと少し手持ち無沙汰になりましたが、先ほど朗読された聖書の箇所を読み直し、説教者のために祈る時なのだと勝手に思い、聖書を読み、そして祈って待ちました。そうしましたら、驚いたことがもう一つメッセージの直前にありました。

 暑い日の礼拝へ出席したゲストへの優しい心遣いであったと思うのですが、わたしが説教者のために祈っている最中に、右側から「どうぞ」という声が突然聞こえました。自分の耳の側で聞こえたので、目を開けて右側を見ましたら、ご高齢の女性の方が氷水の入ったガラスコップをおぼんにのせて持っておられたのです。わたしは、「えっ、このタイミングでお水?」と思いつつ、せっかくですからと思って受け取りましたが、祈りを終えなければならなかったので、水を飲むタイミングを逸してしまいました。大久保教会のように長椅子の前にコップを置く小さなテーブルはありません。「いやぁ、困ったなぁ」と困惑している間にメッセージが始まってしまいました。氷水の入った冷たいコップを持ったままです。

 しかしですね、神様は本当に素晴らしいお方です。これが功を奏しました。絶対にコップを落としてはいけないという緊張感から、睡魔に襲われることなく、メッセージを最初から最後まで集中して聞くことができました。自分がメッセージをしている時は睡魔に襲われることはありませんが、わたしも生身の人間です。誰かのメッセージを聞いている時、睡魔に襲われることもあるわけです。ですので、メッセージ中にどうしても睡魔に襲われる方は、落としたら悲惨な事になるような大事な物を手に持ってメッセージに耳を傾けてみてはいかがでしょうか。絶対に睡魔に打ち勝つことができると自らの体験を通して保証します。笑

 さて、旧約聖書の「コヘレトの言葉」をシリーズで聴いておりますが、今回は6章に聴きます。理解するのがなかなか難しいと皆さんも毎回感じておられることでしょう。本当にご苦労様です。しかし、メッセージする者も御言葉と毎回苦闘しながら準備しております。出来るだけ分かりやすくお話しできるようにと知恵を神様に祈り求めながら言葉を紡ぎ、導かれたことをそのまま皆さんと分かち合っています。日々のお祈りに覚えていただければ感謝です。しかし、過去2回の4章と5章の御言葉は、難しかったですね。しかし、わたしたちが信仰をもってこの時代を生きてゆくためにとても大切なことが記されていますので、どうぞ諦めずに神様からの語りかけに耳を傾けて聴き続けていただきたいと願います。

 今回の6章の準備をするために4章と5章の原稿を読み直しましたが、神様の愛と慰めと励ましが記されていました。また、5章のメッセージの中での言葉使いに大きな間違いをしている事に気付かされましたので、すぐに教会H Pの原稿を修正しました。5章7節を分かち合っている時、わたしは現代の政治家たちは「国民のために、国益のために身を粉にして働いているのではなく、自分たちの利権や富のためだけに働く政治家ばかりで、公正な裁きがまったくなく、神様の御心に沿った正義が欠如している」と言いたかったのに、「自分たちの利権や富のために働く政治家がいない、少ない」と正反対な事を話してしまったようです。ユーチューブのビデオにも残るので、ここで訂正させていただきたいと思います。

 さて、わたしたちの教会では11月に星野富弘さんのアート展を開催しますが、ご家族やご友人、また同僚の方をぜひお誘いいただきたいと思います。会場係も求めております。星野さんの描かれる画も色鮮やかで素晴らしいですが、その詩も本当に素敵で、心に強く語りかけてくるものがあります。その中から今朝のメッセージに共通する詩を紹介したいと思います。

 タイトルは「冬のバラ」で、詩はこうです。「天気予報が雪を告げる日 それでもオレンジ色の蕾を用意して咲いている一枝のバラ 生きるってこういうことなのか。」 一枝のバラに冷たい雪がこれから降り注ごうとし、凍えるような厳しい寒さを経験することになっている。しかし、それでも次の日、数日後に咲くバラの花の蕾を用意している。これからどういうことが待ち受け、自分の身に起こるか分からない。嬉しいことや楽しいこともるだろうし、悲しいことや辛いこともあるだろうし、歓迎できることもできないことも色々とあるだろう。しかし、それが生きるっていうことであり、今日という日をひたむきに生きることが大切だと蕾を付けている一枝のバラが教えているというように理解します。今朝のメッセージの重要なポイントは、そういう「ひたむきさ」をもって日々生きてゆくことの大切さです。

 今朝は、6章全体を読んでゆくことはいたしませんが、この6章は4章の内容にとても似ています。例えば1節です。「太陽の下に、次のような不幸があって、人間を大きく支配しているのをわたしは見た」とあります。4章1節では、「わたしは改めて、太陽の下に行われている虐げを見た」と記されています。4章は太陽の下での「虐げ」が主題でしたが、6章では太陽の下での「不幸」が主題となっています。この「不幸」という言葉ですが、口語訳聖書と新改訳聖書では「悪」、あるいは「悪しきこと」と訳され、最新の聖書協会共同訳聖書では「災い」と訳されています。太陽の下、今の時代に生きるわたしたちにどのような不幸があるでしょうか。人生という旅路の中で、わたしたちはどのような空しさを経験するのでしょうか。

 6章2節を読みますと、日々頑張って働き、必死に節約して富や財宝を得たとしても、死を迎えれば、それらは誰か他の人の手に渡ってしまう、それは空しく、大いに不幸だと言っています。3節の前半を読みますと、どんなに大勢の子どもに恵まれ、長寿を全うしたとしても、手に入れる財産に満足することなく、はたまた子どもたちに見捨てられて葬儀もしてもらえないならば、それは空しく、不幸なことだと言っています。ユダヤ人にとって、葬儀もない、墓に埋葬もされないと言うことは最大の恥であり、侮辱であり、最大の不幸なのです。

 ある人は、子どもに財産を残せたらそれが最善のこと、十分だと考えるかもしれませんが、その財産を狙う兄弟姉妹の骨肉の争いを想像してみてください。幼い頃は仲の良かった兄弟姉妹が憎しみ合い、挙げ句の果てに親が兄弟たちを平等に扱わなかった、えこひいきがあったと憎まれたら、親はたまったものではありません。とっても不幸なことです。

 極めつけは6節前半です。「たとえ、千年の長寿を二度繰り返したとしても、幸福でなかったら、何になろう」とあります。皆さん、たとえ2000年間も生きたとしても、生きることに意味を見出せず、不安や不満、嫉妬や怒りや憎しみで満ちた人生であれば、そんな不幸な人生は他にないのではないでしょうか。6節後半に「すべてのものは同じ一つの所に行くのだから」とありますが、この「同じ一つの所に」とは「墓」を意味しています。つまり富や地位や教養があるなしに関わらず、社会的格差があるなしに関わらず、いつかみんな必ず死を迎えます。

 それでは、その人生に満足感、充実感、達成感、喜び、平安、感謝しつつ終わりを迎える人と、人生に生きる意味を見出せず、不安や不満、嫉妬や怒り、憎しみや後悔で心が翻弄されながら死を迎える人、どちらが幸せな人生を送ったと言えるでしょうか。もちろん、人生に喜び、平安、感謝がある人と言えますが、本当に幸いな人生を送る人・賢者とは、過去の栄光や挫折に囚われず、まだはっきり見えない未来に希望を抱くのではなく、今日という日をしっかり踏みしめながら、懸命に、ひたむきに、誠実に生きる人であるとコヘレトは言うのです。

 9節に注目したいと思います。「欲望が行きすぎるよりも 目の前に見えているものが良い」とありますが、これはどういう意味なのでしょうか。口語訳聖書では「目に見る事は欲望のさまよい歩くにまさる」と訳され、新改訳聖書では「目が見るところは、心があこがれることにまさる」と訳されています。簡単に言うと、理想を追い求めることをやめ、現実を感謝しなさいということです。どんなに追い求めても手に入らないものに憧れ、心満たされないで生きるよりも、今あなたに与えられているものを喜び、感謝し、心を満たしたほうが幸いであるということです。欲望の行き着くところは空しさ、空しさは絶望、絶望は死だけです。しかし、今この時を生きていること、もっと正確に言えば、神様によって今生かされている恵みを喜び、感謝しながら生きることこそ魂に幸いを得ることだとコヘレトは言うのです。

 もう少し角度を変えて、くだけた事をお話ししたいと思いますが、皆さんは期間限定品がお好きでしょうか。旬の味覚という言い方が良いかもしれませんが、秋になると様々な商品が出てきます。わたしの周りには、つまり日本の家族やアメリカの家族には、季節の風味、期間限定の食品が大好きな人がたくさんいます。イチゴの季節になると必ず「苺大福」を買ってくる人を知っています。栗の季節になると「マロン」という言葉がパッケージに記されているケーキやクッキーやお菓子を買いあさる人を知っています。期間限定のサツマイモのフラペチーノを一人で隠れて飲む人がいます。秋になると「月見バーガー」を食べる人や冬になると「グラコロバーガー」を必ず食べる人を知っています。商品に販売期限があると購買意欲をそそるようです。しかし、その反対に、期間限定品にまったく興味のない人も確かにいます。

 ここでわたしが何を分かち合おうとしているのかと言いますと、季節による期間限定品があるように、わたしたちのこの地上での命、神様から与えられた命も期間が限定されているということです。つまり、限られた命を今日どのように生きるかが問われているわけです。自分の命を自然発生したような命だと捉えて自分の好き放題に生きるか。あるいは、この命は神様が祝福をもって与えてくださった賜物、恵みだと捉えて神様の御心に従いながら感謝して生きるか。その受け止め方によって自分の命の取り扱い方、日々の過ごし方、時間の使い方に違いが出てくると思います。そしてその日々の積み重ねが、人生を振り返る中で、幸福で満たされた人生であったか、不幸で満たされない人生であったかが分かると思います。

 コヘレトはこの6章でわたしたちに何を伝えようとしているのでしょうか。神様からの福音として、ここから何を聞くべきでしょうか。それは、死という終わりがあるからこそ、命に限りがあるからこそ、人生には意味がある、無駄なものは何一つない。無駄にしているのはすべて人の欲。今日生かされていることを喜ぼうと励まされているように聞こえます。神様から与えられた命を喜びと感謝をもって懸命に生きる、自分の身が明日どうなるか分からなくても、今日なすべきことを誠実になして、ひたむきに生きることに幸いを得たいと願います。