不確かな世界の中でどう生きるか

「不確かな世界の中でどう生きるか」 十月第四主日礼拝 宣教 2023年10月22日

 コヘレトの言葉 9章7〜12節     牧師 河野信一郎

 おはようございます。今朝もご一緒に礼拝をおささげできる恵みを神様に感謝いたします。ゲストの皆さんの礼拝への出席も心から感謝です。歓迎いたします。近所や公園を散歩しますとわたしの大好きな金木犀のあまり香りが漂っていて、「あぁ、秋になったんだなぁ」と嬉しくなります。そうこう思っている中で、今までなぜ金木犀を教会の庭に植えなかったのだろうか、と。次のお休みの日に、金木犀を探しにホームセンターに行こうと思います。

 さて、昨日とても感謝なことがありましたので、少し分かち合わせていただきたいと思います。新潟のKご夫妻から招待チケットをいただき、LYRE(リラ)という賛美グループの結成30周年記念コンサートに行ってきました。東京基督教大学の学生たちによって30年前に始まった賛美グループです。メンバーは女性4人、男性2人の6人ですが、そのうちのお一人はT牧師と言って、Kご夫妻が新潟上越市で現在教会生活を送っておられるTB教会の牧師です。もうお一人は、昨年の夏にメッセンジャーとしてお招きしたGS牧師のお姉様です。K姉から最新のC Dをいただき、そのC Dの収録曲をすべて覚えてコンサートに臨みましたが、笑いあり、涙あり、素晴らしい証しありのコンサートでした。

 たくさん賛美された中に「大丈夫」というタイトルの素敵な賛美があり、今朝皆さんにぜひ聞いてほしいと思いました。新曲なので、YouTubeで流せないのではないかと思いますが、ダメならば後でカットしてもらいます。この賛美を作詞作曲したWEさんが賛美の前にこのように証しされました。「昔、誰かから聞いた『神様は自然界の素晴らしさを通して私たちに「大丈夫、わたしが一緒だから」と語ってくださっている』。この言葉が好きで、辛い時、きれいな空に神様の愛を感じ、慰められていました。でも、時に空を見上げる気力もないくらい疲れ果てることもあります。コロナ禍、ウクライナとロシアの戦争、祈っても希望が見えないような日々、私は空を見上げる気力を失っていました。そんなある日、ふと足元を見ると水たまりに映る美しい夕焼け空が映っていました。空を見上げられないほど疲れた私に、神様は水たまりに映る美しい空を見せて、見上げられない時もわたしはあなたと一緒だよ、と励ましてくださったように感じ、それをどうしても歌詞にして主を賛美したかった」とおっしゃって、その後に聞いた賛美に感動し、涙腺が緩みました。

 歌詞をスクリーンに映し出します。「*夕暮れ帰り道 ふと泣きたくなる そんな時 涙にじむ瞳 空を写し あなた(神)を思った *悲しみの理由は一つじゃない けど言い表せない ため息と祈りは風になって夕雲に溶けた *大丈夫 私たちは私たちを愛してくれる 神様の大きな御手の中 包まれて生きてく *そっと立ち止まって 涙拭った手を空にかざした 私はひとりじゃない そう分かってる 信じて歩こう *昨日の後悔と明日の不安 胸に抱えたまま 踏み出す足元の水たまりに映った夕空 *大丈夫 私たちは私たちを愛してくれる 神様の大きな御手の中 包まれて生きてく *そっと立ち止まって 涙拭った手を空にかざした 私はひとりじゃない そう分かってる 信じて歩こう 信じて歩こう」

 神様は、いつもあなたの傍らにいると約束してくださるお方です。今夕の礼拝のメッセージもそういう内容のお話をしますが、事実、神様は時には自然界の素晴らしさを通して、時には人や出来事を通して、いつも神様が共にいてくださることを見せてくださいます。確かに、わたしたちは苦境に立たされ、混乱し、明日の事さえも分からない時を人生に幾度か経験し、その度に絶望することがあります。しかし、明日のことはいっさい分からなくても、一つだけ確かなことがあります。それは今日を、今を生きているという事実です。神様に今日も生かされ、神様がいま共にいてくださる。共に歩んでくださる。そのことを信じることができれば、今日の午後も、夜も、平安が与えられ、それが明日につながってゆくのです。

 今日の夕礼拝で「全能なる我が主 神よ」という賛美をささげます。神様は全知全能ですから信頼しましょうという内容です。それなのに、神様はどうして苦しみや悲しみや痛みを経験させるの?と思われるかもしれません。神様のなさることにいっさいの無駄はなく、すべての事柄には神様のご計画があり、意味があり、目的があります。しかし、それらを知るためには、神様を信じて、神様につながらなければなりません。神様とつながらず、コミュニケーションが正常に取れないのに、どうして神様の思いを知ることができるでしょうか。わたしたちを神様につなげるために、神の御子イエス・キリストは地上に遣わされたのです。

 さて、イスラムのテロ組織ハマスとイスラエルの戦争も始まって二週間になります。先日の誤爆で多くの犠牲者を出したガザ地区北部の病院は、聖公会が運営する病院であったそうです。幼い子どもや医療従事者たちも多く犠牲になりました。ですから、パレスチナとイスラエルに生きる土地に神様の憐れみがあるように、主の平和があるように、犠牲者が、痛み苦しむ人たちがこれ以上増えないように、憎しみの連鎖が断ち切られ、平和への道が与えられるよう祈りましょう。神様の憐れみがこの地上を津々浦々、くまなく覆う必要があります。

 今朝のメッセージを通して皆さんの不安を煽るつもりは一切ありませんが、ハマスとイスラエルの戦争が周辺のアラブ諸国に飛び火すると、それ以外の大国をも巻き込む第三次世界大戦に発展しかねないと言われ、世の終わりがすぐ曲がり角まで来ているのではないかという人たちも出てきています。しかし、終末がいつ来るのかは、神様にしか分からないと神の御子であるイエス様が弟子たちにこのように言われます。「その日、その時は、誰も知らない。天使たちも知らない。ただ、父だけがご存じである」と。イエス様のその言葉はマタイ24章、マルコ13章、ルカ12章と17章に記されていて、この言葉の後に、「目を覚まし続け、気を付けて歩みなさい」と命じるのです。この言葉の意味は、「とにかく、今日という日を誠実に、懸命に生きなさい」ということです。明日とか、来週、来月、来年とかではなく、神様の愛の中、御手の中に生かされている今日を大切に生きなさいということです。

 今朝ご一緒に聴く聖書箇所は、コヘレトの言葉の9章です。「今を生きる」というシリーズのテーマで聴いていますが、今朝は9章7節から12節を中心に、「不確かな世界の中でどう生きるか」という主題で、神様からの語りかけを聴いてゆきたいと願っています。しかしながら、非常に興味深い言葉が4節に記されていますので、そこだけは聴いて押さえておきたいと思います。4節をご覧ください。「命あるもののうちに数えられてさえいれば まだ安心だ。犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ」という言葉です。

 9章1節から続く内容は、平たく言いますと「生と死」についてです。善人であれ、賢人であれ、悪人であれ、その歩みが愛に満ちたものであれ、悪に満ちたものであっても、最後には死を迎えるということです。その死の迎え方も千差万別です。このコヘレトという人は、わたしたちに人生に関して2つの視点を持つことを提案します。一つは、生から死を見つめる、つまり生きている間に死についてよく考えて生きるというもの。もう一つは、死から生を見つめる、つまり死に向かう中で生についてよく考えて生きるというものです。

 例えば、若い人たちにとって「死」というのは、まだまだ先のこと、遠いことと考えて、死の備えなどせずに今を楽しんで生きようとするでしょう。しかし、目先のことだけに集中しますと、幾つもの大きな壁にぶち当たって苦しみ、何のために生きているのか分からなくなり、人生に虚しさを感じるようになるでしょう。しかし、50代から上の年齢になりますと、親や大切な人との死別、命に関わる病気などを通して、死ということをいろいろ考えることが多くなります。そういう中で、残された人生を、限られた人生をどのように生き抜こうかとよく考えるようになり、日々を大切に生きようとするわけです。

 幼な子であれ、若い人であれ、歳を重ねた人であれ、いつ、どのような形で死を迎えるか、誰も分かりません。ガザ地区のニュースを見れば、その意味がはっきり分かるでしょう。大切な人に、さよならも、ありがとうも、愛しているよとも言えずに、一瞬にして無惨に殺される、人間の愚かさと醜さの中で死を迎える、こんなに心が張り裂けそうになる悲しいことはありません。残された家族の痛み、悲しみ、苦しみはいかばかりでしょう。

 わたしたち、この日本に生きていても、死を覚えながら生きる必要があります。死を直視することによって、いま生きていることを喜び、より良く生きることができます。しかし、究極的により良い人生を送る方法、限られた人生を、残された人生を充実しながら過ごす方法は、神様というわたしたちを造り、生かしてくださる存在を知り、神様の愛の中で生かされているということを信じ、喜び、感謝して生きるということ、生かされていることには意味があり、神様の目的があるという事を知ること、それが最高な人生へとつながります。「最高な人生」、それは何も困難のない人生という意味ではありません。富や財宝に囲まれた人生でもありません。山あり谷ありの人生、どちらかと言うと苦労ばかり多い人生であっても、神様がいつも近くにいて共に歩んでくださると信じて、喜んで、すべてを委ねながら平安の中で生きられる、そういう人生です。

 先ほどの「犬でも、生きていれば、死んだ獅子よりましだ」というのは、現代風に言うと「生きているだけで丸儲け」、あるいは「生きてさえいれば、希望がある」ということです。しかしベストなのは、「神様の愛に生かされていると信じ、喜ぶ」という信仰を神様からいただくことです。この信仰をわたしたちに与えるために、ご自身にわたしたちをつながるために、イエス・キリストは救い主としてこの地上にお生まれになられました。そしてわたしたちが負うべき罪の代償を、イエス様が身代わりとなって十字架で負ってくださり、死をもってすべて支払ってくださいました。このイエス・キリストを救い主と信じる時、信じる人は罪と死の恐れから解放され、自由になり、明日のことを思い煩うことなく、今日という日を喜びと感謝をもって生き、神様への信頼の中で平安に生きることができるのです。

 7節に「さあ、喜んであなたのパンを食べ 気持よくあなたの酒を飲むがよい。あなたの業を神は受け入れていてくださる」とあります。これは、明日以降のことは心配せずに、今日という日を神様に感謝して楽しみなさいという意味です。まだ先の不確かなことに思い悩んだり、思い煩うために神様に生かされているのではありません。次の8節には、「どのようなときも純白の衣を着て 頭には香油を絶やすな」とありますが、これはいつも神様には忠実に、人々には誠実に、自分には信実に・正直に生きなさいという励ましの言葉です。

 9節に「太陽の下、与えられた空しい人生の日々 愛する妻と共に楽しく生きるがよい」とありますが、もっと分かりやすい訳はこうです。聖書協会共同訳聖書では、「愛する妻と共に人生を見つめよ 空である人生のすべての日々を。それは、太陽の下、空であるすべての日々に神があなたに与えられた物である」と訳されています。「空しい」という言葉は決して否定的・悲観的な言葉ではありません、「短い」とか、「束の間」という意味です。現代の日本では、「人生100年」と言われていますが、旧約の時代の平均寿命は40歳に届きませんでした。18歳で結婚したとしても、パートナーと過ごすのは20年ぐらいの計算になります。わたしたちはその20年を「たった20年」と感じるでしょうか。結婚という道を選ばなくても、大切な家族や友人たちとの人生にも限りがあります。ですから、大切な人たちと、神の家族と一緒に人生を見つめ、今日という日を共に喜び、感謝して生きなさいとコヘレトは教えるのです。大切なのは神様にあって喜び、神様に感謝しつつ生きるということです。

 10節の言葉は実に面白いですね。「何によらず手をつけたことは熱心にするがよい。いつかは行かなければならないあの陰府には 仕事も企ても、知恵も知識も、もうないのだ」とあります。伴侶や家族と共に生きる、誠実に仕事をして生きること等、この地上でしか楽しめない大切なことがあります。その大切なことを、手を抜かずに精一杯生きなさいと励ます言葉です。

 最後に11節と12節を読みましょう。「11太陽の下、再びわたしは見た。足の速い者が競走に、強い者が戦いに 必ずしも勝つとは言えない。知恵があるといってパンにありつくのでも 聡明だからといって富を得るのでも 知識があるといって好意をもたれるのでもない。時と機会はだれにも臨むが、12人間がその時を知らないだけだ。魚が運悪く網にかかったり 鳥が罠にかかったりするように 人間も突然不運に見舞われ、罠にかかる」とあります。

 世界記録保持者がオリンピックで金メダルを取れないで敗退する場面など、テレビなどでご覧になったことがあると思いますが、人生には思わぬ事、不測の事態が起こります。良い人が幸いな日々を過ごせるとも限りません。不運に見舞われたと悔やむこともある訳です。人生には、「まさか」が起こり得るのです。そのような不確かな世界の中でどのように生きることが幸いな人生なのでしょうか。それは命を与え、今日も生かしてくださる神様を信じ、不安や恐れから解放してくださるために十字架で死なれ、三日目に甦られたイエス様を救い主と信じ、この主と共に今日という日を大切に、誠実に生きることではないでしょうか。